2010年03月19日

「ドイツ大使館公邸にて」に寄せて池田俊二


  日本人劣化の原因とその證言
  ー「ドイツ大使館公邸にて」−に寄せて


     坦々塾会員 池田 俊二


(六)に至つて、「隨筆」の枠をはみ出しましたね。

 三島が外なるhostile enemyを見てゐないといふ大使の説が西尾先生の「心に一つの衝撃の波紋
を投げた」のはもつともです。私も意表を突かれました。

 たしかに三島はあまりにも内省的、自閉的、自虐的であつたかもしれません。しかし彼に外のenemyが見
えてゐなかつたとは思はれません。米、露、支、鮮、その他のあらゆる惡意は自明の前提だが、そんなことに言及する暇がないほど、、あらゆる現實を見ようとしない「現代日本の腐敗と空虚」に對する彼の怒りが強かつたのではないでせうか。

 但し「腐敗」といふやうな高級なものがあるとは、私には思へません。「空虚」もあまりぴったりしません。
これまた適切な言葉でないかもしれませんが、一言でいへば日本人の「劣化」の方がいくらか當つてゐるのではないでせうか。

 その原因は、「漱石のうちにはヨーロッパ的な近代精神と日本の封建意識と兩方がせめぎあつてゐて、前者がけつして後者と妥協しなかつたことに大きな苦しみがあつたのです」「兩者がめつたに妥協できぬといふことこそぼくたち日本人の現實なのであります」(福田恆存による角川文庫版「こころ」の解説)と言はれてゐる、その「現實」に妥協どころか、少しも向合はず、全て曖昧に、だらだらと過して來たことではないでせうか。
 西尾先生の、日本と西歐の近代はパラレル、むしろ、多くの點で日本の方が先んじてゐたとの御説には教へられ、共感しました。

 しかしながら、世界を制霸したのは西歐の近代で、日本のそれではありませんでした。そこに遲れて參加した日本の、向うさまに合はせんが爲の努力は眞に涙ぐましいものでしたが、所詮、木に竹を繼ぐやうな作業で、2代目、3代目に至ると、「繼いだ」ことにも思ひ及ばず、合はせる、合はせないといつた意識も全くなくなり、萬事ずるずると來た結果が今の日本のていたらくでせう。

 異る「近代」の繼ぎ合せに問題があることは疑へません。
その根本を深く憂ひたのが、鴎外、荷風であり、また福田恆存、西尾幹二である――私はそのやうに考へてをります。
「自民黨が最大の護憲勢力だ」(三島由紀夫)、「今の自民黨は左翼政黨である。その代議士の大部分は福島みずほなみ」(西尾幹二)、どちらも、根本を見失つた、あるいは見ようといふ氣力さへない現状を見事に言ひ當ててゐると思ひます。
 その日本人劣化について、2代目が認め、證言する文を思ひ出しましたので、御紹介します。
 筆者は小泉信三(明治21年・1888年生れ)。
 その岳父阿部泰藏(嘉永2年・1849年生れ。明治生命保險會社の創立者)とその子 阿部章藏(明治20年・1887年生れ。同保險會社專務にして、作家 水上瀧太郎)を比較して曰く。

 阿部章藏、即ち水上瀧太郎の颯爽たる英氣と人間的魅力は無比であつた。これは今も人々の間に語り傳へられてゐることと思ふ。けれども、一たび學問識見といふことになると、私がどうヒイキして見ても、子は父に及ばない。敢然激浪に逆ふといふやうなことは、章藏の避けないところであつたが、彼れの父には、世の趨勢を洞察し、騷がず、默つてこれに處するといふ趣きがあつた。私は自分の父の世代に屬する人々を見て、「やはり鍛へがちがふ」と感じたことが幾たびもある。阿部も亦たその一人であつた。

 初代と2代の差を見事に言ひ當ててゐると思ひます。「劣化」の始まりは、この邊からではないでせうか。
 初代は、本來の日本人として、日本の近代を以て西洋の近代に相對しました。そして、當時壓倒的に優越してゐた西洋文明を取込むことに相當な成功を收めました。軍隊、學校、病院等々の公的施設は一應西洋のそれに似たものが出來ました。けれども、それは無理を重ねて作り上げたものであり、國民生活の
自然な延長によるものではありませんでした。

 ここに彼我の根本的差異があるのですが、2代目以降にとつては、見掛けの類似のにより、その差が感じにくくなくなつてきました。また感じる必要もないかの如く思はれるやうになり
ました。

 ここに劣化の根本原因があると思ひます。決定的違ひがあるにもかかはらず、それを意識しなくなつたとしたら、あらゆるものが正確に見えず、判斷も出來ないからです。
かくて、氣樂にして緊張感を缺いた2代目、3代目が出現することになります。

 西尾先生のお嫌ひな大正教養主義(私も大嫌ひです)も彼らによる産物で、先生との對談本『自由と宿命・西尾幹二との對話』で持ち出した、カール・レヴィットの「1階・2階」論はこのことを指してゐるのでせう。
 父と子と、その年齡差は僅か30〜40年です。けれども、ここに日本人變質にとつて最大の要素があります。
 もつとも、2代目が墮落の始まりであることは間違ひありませんが、今日の我々(何代めになるのでせうか)に較べれば遙かにましでした。小泉信三の如く、先代を見て、己の劣ることを自覺し、たまには正常な感覺を取り戻すこともあつたからです。

 その先人・先代が遠のき、以來急坂を轉げ落ちるやうに、落ちに落ちて現在(三島由紀夫の諫死以後もずゐぶんと墜ち續けました)に至りました。いまが下げ止りといふ保證はありません。どこまで行くのか、私には分りません。

 鴎外(文久2年・1862年)や漱石(慶應3年―明治維新の前年・1867年)が屬するのは、初代であるか、2代であるかについては、はつきりとは決められません。あるいは端境期と言へるかもしれません。しかし、明かに2代目である荷風(明治17年・1884年)とともに、近代日本のかかる病弊を憂ひたことは間違ひありません。

 彼らは日本の將來にかなり絶望してゐましたが、今日のていたらくまで豫想してゐたでせうか。

 なほ、足立誠之さんの感想に對する西尾先生の御論評「足立さんのいつものお言葉には感服するのが常だったが、今回は一寸違うのではないかと私は思った」については、少々疑問を感じました。

 足立さん達の眞意は「反省好きなあぶない善意の人」たることをよしとするのではなくて、むしろ敢然と自分を主張すべしといふことではないでせうか。
 「我が國自身の問題であることを抛擲して、今日の状態をアメリカの責任にして終るならば」は――アメリカの惡は當然の前提とした上で、そこで「終」つては駄目だ、惡の被害者は我々なのだから、「自身の問題」として、斷乎戰ひ、これを拂ひのけるのでなければ――といふ意味に讀みましたが、如何でせうか。


posted by 坦々塾事務局大石朋子 at 20:35| Comment(0) | 日録へのコメント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月09日

ドイツ大使公邸にて 感想文 浅野正美



      ドイツ大使公邸にて 感想文

            坦々塾会員 浅野正美



 西尾先生が日録に連載されていた随筆、「ドイツ大使公邸にて」が完結した。

 この随筆は、大使館での魅力的な会話と、先生の若い頃からのドイツとの触れ合いが交互に展開し、最後にドイツ大使が書かれた三島由紀夫論の紹介と、その感想で閉じられている。

 先生の随筆で来年が日独交流150周年にあたることを知った。私は何一つきちんと勉強したものはないが、若い頃からドイツ・オーストリアの音楽を聴き、少しばかりのドイツ文学を愛読してきた。新婚旅行の行先もドイツ・オーストリアを選び、人気抜群のイタリア、スイス、フランスは訪れなかった。旅程を定めない旅だったのでその街が気に入れば連泊し、次の行き先は宿泊先で地図を拡げて決めるという呑気な旅であった。

どうしても訪れたかったのは、フュッセンとウィーンだった。フュッセンで、ルートビッヒ二世が建てたノイシュバンシュタイン城をこの目で見たかった。

フュッセンの地に立ったとき、「ルートビッヒ、貴方は壮大な浪費をしてバイエルンを困らせましたが、100年かけて充分元を取りましたね」、とこころの中でつぶやいた。

 夕食に入ったレストランでは、となりのテーブルで家族連れが食事をとっていた。突然小さな女の子が泣き出して、母親がどんなになだめても一向に泣きやまない。そこで私達が折り鶴を折って女の子に手渡すと、ピタリと泣きやんだ。 「これは飛びますか?」と母親に聞かれ、「飛べないけれど、日本では幸福のシンボルです。」と説明した。作り方を教えて欲しいといわれ、周囲の客も交えて即席の折り紙教室を開いた。



 幸運にもウィーンではウィーンフィルの演奏会を一回と、国立歌劇場のオペラを二回鑑賞することができた。

オペラの演目は「ボリス・ゴドノフ」と「トロヴァトーレ」で、今でも我が家にはその時持ち帰ったボリスの演奏会ポスターがパネルにして飾ってある。

 もう30年ほど昔、赤坂の東京ドイツ文化センターでドイツオペラのフィルム上映会があった。8oと16oのフィルムでドイツオペラの名作を上映するという催しで、入場料は一作品500円であった。

ボツェック・薔薇の騎士・天国と地獄・魔笛・タンホイザー。魔弾の射手、これがその時観た作品である。

C・クライバー指揮によるバイエルン国立歌劇場の「薔薇の騎士」では、上映終了後満員の観客から盛大な拍手がわき起こった。この作品はそれから15年後、同じ指揮者によるウィーンオペラの来日公演でも観ることができた。カーテンコールの東京文化会館は、ホールの壁が吹き飛ぶのではないかと思えるほどの拍手と歓声に包まれた。帰りにアメ横の居酒屋に入ると、オペラ座のメンバーが先客として飲んでいた。私は彼らに冷や酒をおごった。



 今さらベートーヴェンやカントでもない、という大使館側の教授の言葉は私には少し悲しかった。それは日本が、フジヤマ・ゲイシャによってイメージされることとは違うかも知れないが、ドイツの若者にとっても自国の偉大な文化は過去のものとなってしまったようだ。

 

ドイツ人が土偶の造形に現代日本のアニメキャラクターを連想したというのは、驚きであった。土偶の持つカリカチュアは、信仰と切り離せないものだと思う。誇張されたセクシャルな部位には、命を宿すことへの限りない感謝があり、それは豊饒への祈りにも通じるものであろう。縄文の土偶や火炎土器は、最古でありながら前衛的であり、弥生のスマートで均整のとれたものに較べて、一段と新しいイメージがある。

 弥生の均整がバッハであるとするならば、縄文の過剰はワグナーかストラビンスキーに近いように思う。あるいは能と歌舞伎といってもいいかも知れない。とこんな妄想を縄文人が聞いたら、私達がドイツ人の発想に驚いたように、びっくりするだろうか。



 ケルンでは一年おきに世界最大のカメラと写真用品の展示会が開かれる。私はカメラ店に勤務しており、15年程前、運良くこの展示会を見学する機会に恵まれた。ただ、その当時も今も世界のカメラのほとんどは日本が原産国であり、そういった意味ではわざわざ日本からドイツまで「Made in Japan」のカメラを見に行く必要性はまったくないといってよかった。ドイツが小型カメラを発明した聖地であることは揺るがないのだが。

 初日に展示会の見学が終了したところで許しをもらい、私はツアーから離脱した。こうして二度目のドイツと、東欧の短い一人旅をする機会を得た。

 この時は旅程のほとんどを東欧に割き、チェコ、ハンガリー、ルーマニアを駆け足で回った。数年前に冷戦が崩壊し、旧共産圏にも簡単に旅行ができるようになっていた。私はこの時、共産主義の墓参りをするような気分でいた。



 ベルリンの壁が崩れて間もなく、新宿の路上でベルリンの壁の破片が売られていた。何の変哲もない石の混じったコンクリートのかけらで、偽物かも知れないが私はそれを1,000円で買った。今でも書棚に置いてある。

 この時L・バーンスタインがフロイデをフライハイトに替えて演奏したベートーヴェンの9番シンフォニーは、CDやDVDにもなったが、いつかいつかという内に聞き逃してしまった。

当時テレビ番組で聞いて今でも大変印象に残っている言葉がある。それは旧東独の老婆がインタビューに答えたもので、彼女は「自分が生きている内に壁が壊れるなどということは考えたこともなかった。もうこの先の人生で何が起きようと、私は驚くということはないであろう。」と語った。



 来年の日独交流150周年の催事が、実り多いものになることを願う。私もその内のいくつかに是非足を運びたいと思う。そして西尾先生がおっしゃったように、ドイツが生んだ偉人についてもきちんと紹介されることを祈りたい。職業に関係することでいえば、今から170年前にフランスで発明された写真術は、ドイツで小型カメラが開発されたことで、大衆の手に行き渡った。この時生み出された要素は、基本の部分では現在も変化していない。85年前のデファクトスタンダードが今も通用する珍しい分野ではないかと思う。



 かつてある仏文の教授が、「日本人はドイツを拡大鏡で見ている」、と話されたことがあった。少なくとも私はそうなのかも知れない。それでも、ほんの少しであれ、若い頃からドイツの芸術に親しんだことが、私の人生に大きな彩りを与えてくれたことは間違いない。

   浅野正美
posted by 坦々塾事務局大石朋子 at 11:57| Comment(0) | 日録へのコメント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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