2011年01月20日

西尾からのお願い


  <福田恆存の文学と戦争>

  西尾からのお願い

 池田さん、石原さん、等々力さんのご意見を関心をもって拝見しました。

やはり福田恆存氏の元の文章に当たって考え、書いて下さい。

上記三人の他にも、どなたでも、今まで福田論文を読んだことのない方…も、この論争に参加するようお願いします。大いに語り合って下さい。自己啓発のためにも。

        


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

本の画像にマウスを合せて、
右クリックし「リンクを開く」を左でクリックし画像を表示してください。
小さめの画像が出ていますので、そこを左でクリックしてください。
大きくなります。
@文学と戦争責任 p227.JPG

A文学と戦争責任p228,229.JPG

B文学と戦争責任p230,231.JPG


C文学と戦争責任p232,233.JPG

D文学と戦争責任p234,235.JPG

坦々塾事務局へのご連絡は
tanntannjyuku@mail.goo.ne.jp
にお願いします。





posted by 坦々塾事務局大石朋子 at 18:35| 東京 ☀| Comment(9) | 西尾先生からのお話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント


小生、「戰後からの觀點」に「參つた!」といふのが、正直な感想で、今は、それを容れた上で福田恆存や戰爭を論ずることは出來ません。

多少なりとも、自分の考へを形成するには、相當の時間と勉強が必要だと思ひます。

自身が同意できぬ論に對して反論するのは簡單ですが、ウーンと考へ込んでしまつて・・・。

Posted by 池田 俊二 at 2011年01月21日 14:50
 横から失礼。
 西尾先生のが久しぶりに入稿。そこに載った福田稿(「文学と戦争責任」)を昨夜プリンタで出してみると、FAXのを画像に取り込んだのが丸分かりなのネ。下の方が少し切れてて、P.233辺り必ずしも正確には読めねぇや。一字が飛ぶ程度なら簡単に脳内補正できるけど、毎行二字以上となると少々きつい。
 第一印象は「相当な皮肉屋みたいな書き方してるのね」でした。戦争があってもなくてもどっちみち表現は不自由を抱えるのに、それを戦争責任に託ける嫌らしさが、福田先生の書き方だといっそう猥褻に思えてくる。どことなく近い話に見えるのは、西尾先生の著作で云うと〜ホレ、なんだっけ。友人の正直な告白が却って不正直に見えて不快だったりする、あの感覚に近い要素が戦争責任論にはウンザリするくらい溢れているんじゃないかと。ぶよぶよした男のポルノめいた恥部は女の前ならどうにかなる事もあるんだろうけど、男の前では「そっちの趣味がない限り」たぶん興奮しない筈。と解すれば「心ならずも戦争を正当化し美化する文章を書かざるをえなかった」私小説的姿勢は閨房の試みに近く、相手を選ばない欲情の正直さ(しかも選んだ気になっている)と同じくらい無防備って事になる?
 …私は今、「無防備」と書いた。誰もが私的身辺に抱える不可避の要素だからこそ、それを認めない訳にはいかない。しかしながら「無防備なる自己」と「無防備ではいけない国家的要請」の双方を認めて初めて、公的警戒心のリアリティが自分の事の様に感じられるのだとするならば、「無防備の自覚」なき戦争責任の方がむしろ私には「暴力的な強制」に見えてくる(裸で生まれてくる赤子はやがて猥褻責任を予定されるから、服を着て生まれてこれない身を永遠に呪えとでも?)。そんな責任を自分で自分に押しつけられても困る。云うなれば「身に余る不本意」でござる。政権党の意欲と同じくらい旺盛な他人事を自分の政治責任に課されてもねぇ。ところが昨今は公私混同でもしたのだろうか、これをセンチメンタルに「友愛」へと帰結させる人が居るらしい。軍事は国家の衣服であるにもかかわらず。
 裸体と衣服の峻別なき国家論に、真っ当な形の「公」が宿るとは考えにくい。勿論これもまた一種の戦後的観点である事に変わりはなかろう。そこに戦前の「私」をどう絡ませようとも、戦前の「公」が揺らぐ事はあるまい。どちらかと云えば戦後の、赤裸となった「公」の方が野蛮かつ異常だろう。つまるところ私は、福田論文における「戦争責任」なる語彙を、「公」に対する「私」の優越をカムフラージュするキーワードであるかの様に読まざるを得なかったのである。
Posted by 苹 at 2011年01月21日 17:51

苹さん こんにちわ

 そうなんです。FAXをプリントしてからアップすると、もっと読めなくなってしまうので、そのままデータを取り込んだのです。

 すみません。  大石

Posted by 坦々塾事務局 大石 at 2011年01月21日 18:23
 追記。〜プリントせずに、そのままFAXのデータを取り込む方法があるとは。いづれにしろ福田先生の原文を有難う御座います。どんな論争が行われているのか、怪訝に思って居りました。あと「友人の正直な告白が却って不正直に見えて不快」云々の記憶は、あれから書棚を調べたところ『人生の深淵について』P.136と判明しました。
 初めはセレブ奥様のブログに非表示投稿するつもりで居たけれど、直接こちらに出す方がいいのかなと。でも他の方々(特に奥様ブログ常連の坦々塾会員)が投稿しないと、横から感想を書くのには、いつまでも「お呼びでない?」の感が付き纏って「コリャまた失礼いたしました」の心境で御座います。
Posted by 苹@泥酔 at 2011年01月22日 02:38
私には、参戦は叶いませんが、下記にヒントになるような記事があります
西さんが纏められたようです。
http://www.melma.com/backnumber_149567_5084883/
Posted by bunn at 2011年01月22日 16:03
 こちらには初めて投稿します。
 あの場で先生のお話を伺っていましたが、福田氏ではなく別の人のことについて「アレ?」と思ったことがあるので、それをからめつつ書いて提出するつもりはあるのです。ただ奈何せん、一年で一番忙しい時期なのでもう一週間ほど待って下さい。管理人様のところにお送りすれば良いのですね?
Posted by キルドンム at 2011年01月27日 09:47

 キルドンム様

 坦々塾事務局大石個人のメールでも、坦々塾のメール( tanntannjyuku@mail.goo.ne.jp
 )でも、どちらも私が見ますのでOKです。


 最近は、坦々塾の方以外の方からもコメント欄ではなく、直接問い合わせのメールをいただいていますので、坦々塾のメールも一日に一回は見ています。

 
 キルドンムさんの感想文お待ちしています。\(^o^)/

 坦々塾事務局 大石 (管理人?兼務?)

Posted by 坦々塾事務局 at 2011年01月27日 10:38
 福田恆存は学生時代に何冊かしか読んでいない。三島由紀夫は殆ど読みました。演劇で二人が論争し合ったこともある。遠藤浩一は最近「正論」誌上で三島よりも福田の方を高く評価していた。不勉強での福田に対する私の認識は「保守の代表的な一人」その程度のものであった。              しかし、此度の西尾先生のお話には正直言って大きな衝撃を受けました。福田の書いたものに「A級戦犯」やら「軍国主義」等の言葉がぞろぞろ出て来てそれを批判している。戦後保守といわれる人もその程度のものでしかなかったところに現今の混迷・衰退に至る大きな原因があったのだろうと西尾先生は指摘された。先生はまた小林秀雄より京都郊外に引っ込んでしまった保田與重郎の方を評価された。敗戦という惨めな状況下で「自存自衛」「アジア解放」の大東亜戦争の大義は吹っ飛んでしまったのか。嗚呼。       いやこのままで良い筈がない。我々は俗悪な東京裁判史観から脱却し大東亜戦争の正当性を強く訴え続けて行かねばならぬ。そして我が祖先・子孫の為にも何としても日本の誇りを取り戻さねば。
Posted by 松山久幸 at 2011年01月27日 11:04
 キルドンム様の忙殺状態は大学入試の関係かしら。向後どんな視点が出てくるのか興味津々。抑も外野からは塾長講話の中身が分からず、寧ろ会員諸賢の感想に「そんなにショッキングだったの?」と吃驚して居ります。また「日録」で半月ほど西尾先生の沈黙が続いてるのを見ると、「もしや雑誌発表が近いのかな」と、内心では期待が勝手に盛り上がってたりなんかして(虎と狸の皮算用?)。
 支那の場合は倫理政教と芸術の合一による「載道」実践の伝統があるらしく(古くは楽記や詩経に由る?)、そちらの観点から見れば政治を文学から切り離す方が、却って不正直または無節操と映るのかも知れません。そこんとこを所謂「無防備」の一側面と受け止めるなら、今に続く中国贔屓の論理と対米敗戦コンプレックスが抱き合わせとなるのは当時からあらかた予測できていた筈。
 福田先生の原文を読むと、英文学の影響(?)が些か強過ぎるからこそ逆に、文学的無防備が政治的無防備を後々引き寄せていったんじゃないかと。〜こんなんだと、ちと読みが荒いですかねぇ(汗)。要は虎に食われるか、狸に化かされるか。独立前の悲哀に真っ当な保守姿勢は通じず、ただ警戒されるだけ。
 福田先生は福田先生なりに戦勝国側のタームを訳語(欧米語→日本語/漢語)の土俵で蒸留しようとしたけれど、国土は焼け野原と雖も「実のところ生活文化は栄養タップリ」だったので、いつの間にか保守の土壌が左翼菌と中国菌の培地になってしもた…てな印象があります。政治から文学を切り離す営為も一面では私小説的と云わざるを得ず、プロレタリア文学の方から政治に接近する上で「それが方便となった」気がせぬでもなし。
Posted by 苹@泥酔 at 2011年01月27日 21:15
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