2010年03月03日

正論4月号 左翼ファシズムに奪われた日本 感想文 浅野正美


  左翼ファシズムに奪われた日本 感想文

               正論4月号    



     坦々塾会員  浅野 正美

 西尾先生の現在を見つめる視点にはいつも独特の鋭さがあり、その都度はっとさせられることが多い。

 標題の講演録も同様に、世間で一般的に了解されている通説とは異なった解釈がされていて、我が国の惨状がこうした時代精神の下で蔓延していったということが、非常に明瞭に理解できた。

 西尾先生は、小沢幹事長も小泉元首相も、どちらも左翼全体主義者にして、双子の兄弟であると言い切る。世間では小沢のことを、田中角栄の薫陶を受け、その体質をそのまま受け継いだ愛弟子であると認識している。過半数の論理、金と選挙で組織を恫喝し、豪腕といわれる押しの強さ。かたや小泉は、今でも一部の保守派の間では、北朝鮮に二度までも乗り込んで拉致被害者の一部救出を成し遂げたこと、中国と喧嘩をしたこと、形はどうあれ靖國神社に参拝したこと、を以て我らが同志であると信じている人も多い。

 田中にあって小沢にないもの、それは国家意識であると西尾先生は指摘する。彼がなしてきた数々の国辱的愚行の数々や、発言についてはもう改めていうまでもない。歴史の認識に関しても、それが認識と呼べるのかどうかは別にして、あまりにも稚拙で、戦後進歩派史観の受け売りでしかない。小沢を知る人によると、彼は結構な読書家であり、移動の車中のわずかな時間も無駄にすることなく読書に勤しみ、そのために彼の車にはつねに数冊の本が置かれているという。また、自宅の書斎にも大量の蔵書があり、日本史、特に幕末ものを大変好んでいるということを読んだことがある。小沢はそういった大量の読書から何を学び、血肉としたのであろうか。

 歴史に触れることで人間を知り、その教養を自らの土台として、現実の政治を考えて来たのだろうか。



 世の中を変革できるのは、「若者、ばか者、変わり者」だといわれるが、小泉の華々しい言説はその変人的なキャラクターと相まって、この人なら本当に日本を作り替えてくれるかも知れない、という幻想を多くの国民に与えた。短期政権が続く我が国にあって、5年という長期政権を全うできたのも、そうした世論の強い支持があってのことであった。彼が唱えた構造改革の是非について、ここでは問わない。冷戦終結以降、世界の経済システムは大きく変貌し、それぞれの国家が果たす役割は、経済に限っても大きく変わった。こうした歴史の大きなうねりに翻弄されて、市場から退出せざるを得なくなった事例は後を絶たない。現在の経済危機も、元をたどればベルリンの壁崩壊に行き着くのではないかと思う。

 政治家は嘘を付くのも仕事の一つだが、小泉が国民に訴えた「自民党をぶっ壊す」という約束は見事に果たされた。



 オルテガが「大衆の反逆」で書いた世の中が、21世紀の日本でそのままに出現した。我が国は大学進学率が55%という超高学歴社会でありながら、一億大衆の平均的な知的レベルは、驚くほど低い。そうした大衆が投票を行うのであるから、そこに良識や国益を期待することはそもそも不可能である。

 すでにはるか昔から、代議士の一角は広義の芸能人と引退した運動選手のための指定席となっている。また、東京と大阪という、日本を代表する東西の都市の知事が、元コメディアンで占められるという悪い冗談にも何の疑問も起きなかった。

 国民に政治意識といったものがあるとして、その多くのがマスコミの論調によって左右されることから、一連の政治的愚劣な現象の主犯をマスコミに求める意見もあるが、マスコミとて一介の営利団体であって、啓蒙組織や論壇機関ではない。徹底して売れるものを作るという点では、製造業と変わらない。間接的にであれそれを選考しながら買っているのは、視聴者という名の大衆である。マスコミの良識を期待するということは、百年清河を待つに等しい。



 小泉と小沢という二人に共通する政治的強権手法こそ、左翼ファシズムの手法であると西尾先生は説く。

 空疎なスローガンを掲げてマスコミを煽り、無知な大衆を熱狂に巻き込むことで、圧倒的なムードのまま投票になだれ込み、合法的に多数を獲得する。まるで合わせ鏡のような最近二回の総選挙は、こうして権力者の思惑通りに運んでいった。小沢の最近の発言は、かつての左翼政党の主張とまったく同じである。西尾先生が本論で指摘されているように、冷戦時代の左翼政党は、永遠の万年野党として、あまい幻想と何でも反対を唱えることだけが存在意義であった。現実の政治には容喙するだけで済んだ。本人達も政権担当能力があるとはよもや思ってもいなかったであろう。小沢の政治姿勢がいわゆる中道リベラルといったポジションではないことは、ここ半年あまりの言動で完全にはっきりした。彼は紛れもない反日思想の持ち主であり、我が国を中韓が望む国家に改造しようとしていることは明らかである。彼には、論争は国境線の内際(波打ち際)までという、国際社会の常識は通用しない。圧倒的な数の力で、合法的に反日的な法律を成立させるために必要なことは、今夏の参議院選で過半数を獲得することである。これが阻止できなければ、民主主義の手続きに則って、反対意見には言論の自由を認めないという悪法が成立する可能性すらある。



 これから述べることは、こうあって欲しくはないという与太話だが、小沢の頭の中にはこんなシナリオも書かれているのかも知れない。

 大量の移民を中韓から受け容れ、定住外国人として選挙権を与える。それはやがて国政選挙にもおよび、やがては被選挙権へと拡大する。そこまで進めるためには、改憲という巨大な壁が目の前に立ちふさがるが、解釈改憲で押し通す。外国人のための人権擁護法案が成立し、保守は事実上発言の機会を奪われる。罰則を強化すれば、身柄を拘束することも簡単である。

 過去の発言が、印刷物やインターネットによって徹底的に洗い出され、リストに挙げられた危険人物は、つねに尾行、盗聴、密告の対象となる。これは悪夢だ。

 移民定住外国人は、一人っ子政策からも解放されて、猛烈な繁殖力で子供を産み、そういった子供に支払う子供手当は国債で対処せざるを得ないが、やがて国内金融資産も枯渇して、中国に頭を下げて買ってもらう日が来る。財政の破綻した我が国では、低金利を維持することが至上命題であり、大量の日本国債を所有する中国は意のままに我が国を操ることができる。やがて、なすすべもなく中国の日本自治区として大陸の覇権に編入させられてしまう。最高指揮官は自衛隊に出動命令を出さない。同化政策がとられて大和撫子は奪われ、国語も失う。アメリカも国際社会も、没落する日本には手を差しのべない。自衛隊は人民解放軍に編入され、小沢一郎が野戦指揮官に就く。



 政党とは、理念を同じくする人達が集まって、その理念を実現するために政治活動を行う組織だと一般には考えられているが、西尾先生が言われるように、我が国の代議士にはそういった通念はほとんどない。

 テレビ局の最重関心事が視聴率の獲得であるように、選挙が絶対安泰の一部の議員を除いて、多くの代議士にとって最大の関心は、自らの身分保証である。それを担保してくれるのであれば、政党は関係ないという極端な行動を取る者まである。この現象を西尾先生は、冷戦時アメリカ陣営の一員として、アメリカの庇護の元、国家感なきままに、左右の対立と政局ばかりに憂き身をやつしてきた我が国政治の貧困にその源泉を見る。それが冷戦が終結した後も継続し、責任政党である自民党は政権党としての自覚もなく不作為を繰り返す中で、自壊していった。



 民主党からは今のところ、小沢を批判する大きな声はない。

 檄文というときの檄は木偏である。激しい文章が檄文ではない。その昔中国で、主君を諫めるために板に書いた文章を貼り付けて、衆人に告げた故事にならって木偏が充てられている、というお話しを徳岡孝夫氏から伺ったことがある。壁新聞の走りだそうだが、古代の檄文は死を賭した箴言であった。民主党の議員にその気概を期待するのは無理かもしれないが、民心が離反することで遠からず民主党の小沢離れは加速するのではないかと楽観している。その後に起きるのが政党の離合集散なのか、大同団結なのか、はたまた小党分立なのか、まったく予想もできないが、例えどのような政変が起きようとも、我が国の政治がプラグマティズムを取り戻すことは決してないであろうという、諦めに似た絶望だけは保証できるように思う。



 破綻寸前の国家財政は、若年世代とこれから生まれてくる将来の日本人に、莫大な債務を押しつけることになるが、若者の間に鬱積する世代間不公平を煽って、極端な主張をする未来の独裁者が現れないという保証はない。

 普段投票に行かない若年層の不満に訴える、新たなファシズムがどこかで芽吹いているのかもしれない。

 ワーキングプアという言葉が広まるのに連れて、ノン・ワーキングリッチという造語が使われ出した。この言葉には、企業内で仕事をしないで高給を貪る管理職に対する揶揄とも罵倒ともつかない、若者の憎悪の感情が含まれている。我が国の企業の生産性が低い原因の一つがまさしくこの問題であり、会社の中で下層に位置する若者は、そういった現実を鋭く観察している。従来であれば、年功序列の賃金体系が、そういったアンバランスを長い会社員生活の中で吸収していったが、今そういった制度の永続を信じる若者はいない。なぜ、中高齢者の既得権益を守るために我々が犠牲にならなければならないのか、といったフラストレーションは、個人レベルでは相当にたまっているのではないかと思う。それは揮発したガソリンの充満した密室のように、何かの拍子で簡単に爆発する状態ではないだろうか。そこにカリスマが現れたら、大きく世論を動かすことができるかも知れない。



 西尾先生は、有り余る自由の果てに人が渇望するものが、不自由であるというパラドックスを指摘されているが、過去二回の総選挙で似非独裁者が思うがままに振る舞うことに、国民もマスコミも喝采を送り、そして信任してきた。人間には、何者かに束ねられたいという欲求が間違いなくある。それは所属の欲求に通じる。他人を支配したいと思う人間が、同時に他人から支配されたいと考える。心理学でいう共依存のような関係が、一人の人間の中に共存しているのであろう。それは決して封建時代の残滓などではないと思う。



 西尾先生も言及されている、F・フクヤマの「歴史の終わり」を私は読んでいない。ただ、今までに読んだ文章の中で「文明の衝突」と並んで大変多く引用されてきた書物だという印象がある。ということはそれだけ多くの人に影響を与えたということであろう。本を読んでいないので、その内容については何も書くことはできないが、先にも挙げたオルテガも、過去の歴史にこだわるよりも、未来を展望することが政治には求められる、というようなことを書いていたように思う。(記憶が非常にあやふやで申し訳ありません)

 ただし現実の政治、特に戦後の我が国を巡る政治は、歴史の蒸し返し、捏造、改竄、隠蔽、敗北史観、贖罪といったものに翻弄されてきた。一方ドイツでは、ギリシャの財政支援をきっかけに、一層の失地回復を狙っているという報道があった。EUもそれを黙認せざるを得ないということであろうか。



 我が国民は、全体主義的興奮の毒を二度飲んだ。大衆も参加する壮大なパーティーが開かれ、特定の人間を血祭りにした。仰いだ毒は、免疫を付けただろうか。否、さらに強い毒を欲するようになっただけではないかと思う。少なくとも日本国民は、過去二回の総選挙の結果に対して、そのほとんどが、反省はおろか懐疑すらしていない。民主主義というものは、権利はあっても責任を伴わない制度であるというような勘違いをしている。民主主義の要諦は言論の自由にこそその本来の価値があるはずなのに、まったく逆の結果を招いた。人民主権だとおだてられ続けて、ついに「大衆の反逆」が起きた。



 悪夢の第三章は、公明党との連立だろうか。半年後、有権者はまた致死量にはまだ足りない毒杯を仰いで、その痺れに酔うのだろうか。そのときこそ小沢の高笑いが聞こえるであろう。北京で見せたのと同じあのとびきりの笑顔が、我が家のテレビ画面いっぱいに映るのだろうか。

文責:浅野 正美
posted by 坦々塾事務局大石朋子 at 03:00| Comment(2) | 読書感想文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント

いろいろな点で共感できますが、特に注目すべきはworking poorとnon-working rich
の問題です。
世代間の対立は今や際立ってきています。中高年層でのrichとpoorとの対立についてのみが議論されますが、もっと深刻なのはこの世代間の格差を解消するシステムが失われたことです。
この点の浅野さんのご指摘は見事だと思います。

Posted by S.A at 2010年03月03日 12:16
S.A様。コメントありがとうございます。ニーチェの「人間的、あまりに人間的」の中にこんな言葉がありました。
465 精神の復活。−通常政治的病床の上で一民族は自分自身を若返らせ、権力の追求や主張の中で次第に失って来たみずからの精神をふたたびみいだすのである。文化は最高のものを政治的に衰弱した時代に負うている。
このアフォリズムが現今の我が国に当てはまるならば、希望が持てそうです。
Posted by 浅野正美 at 2010年03月04日 10:18
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