2010年02月02日

保守の怒り」より派生した私の考察 鏑木徹


  「保守の怒り」より派生した私の考察

     坦々塾会員 鏑木 徹

絶対について

 小林よしのりは男系絶対主義といいます。しかし、女系容認の天皇形骸化存続も絶対性を帯びているのではないでしょうか。絶対主義がなぜいけないかといえば、価値の一元化、全体主義に結び付くと警戒するからでしょう。

 非常に究極的な思考ですが、「絶対」は有りません。そして最終的に『「絶対」は無い』という「絶対」も有りません。それでは『「絶対」は有る』のかといえば、『「絶対」は有る』は『「絶対」は無い』を必然的に相補的概念として内包します。

価値の否定

 昨今の日本の混迷は、左も右も大混乱の様相です。極め付け保守の混乱は、自民党に代わる政治理念が現れないことでも明らかです。平沼新党にしても、日本志民会議にしても、維新政党新風にしても、確固たる新しい日本の政治理念を見出し兼ねているように見えます。

 その原因は、近代主義の総体ごと、日本の天皇中心の伝統神話と合体させようとするからではないでしょうか。

 明治期の日本の近代化は、自立国家の存続の為に必然であり、見事に成功させました。
 しかし、日本の近代化は必要最小限に限定して成されるべきで、事実当時はそのように実施されたのだと思います。

 近代主義は高度な科学技術と共に、キリスト教的一元主義を内在させていますが、日本は取りあえず高度な科学技術だけ受け入れ、キリスト教的一元主義は天皇と馴染まないので無視したのではないでしょうか。

 そのキリスト教的一元主義を受け入れたのは、戦後アメリカによる占領以降です。表面上、受け入れざるを得なかったのですが、それを真に受入れるよう洗脳教育され続けてきました。それは徐々に浸透し、現在に至っています。これが日本の価値の混迷の原因ではないでしょうか。
 自称保守の人々は洗脳の進度は様々で、それが混乱の実態ではないでしょうか。

 私はそのような閉塞混迷した日本の価値を、全て否定してはどうかと考えます。
 民主主義、資本主義、科学への信奉、などは勿論、天皇、神道、などの日本には「絶対」であると考えられている価値も同様です。

 『保守の怒り』はその先鞭ではないのか、と考えます。
価値を全て、徹底的に「否定」し尽くすと、対の「肯定」が無くなります。結果、存在理由を無くした「否定」も消えてしまいます。
 そこには「絶対」を超えた、日本人が自然と受け入れられる、大いなる幻想=現実が立ち昇るのではないかと期待するのです。

平成22年2月1日



posted by 坦々塾事務局大石朋子 at 06:15| Comment(0) | 読書感想文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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