2009年09月10日

第十五回坦々塾感想池田俊二


第15囘坦々塾斷想

     坦々塾会員 池田俊二

福地惇先生のユダヤ人論には眞に驚きました。先生によれば、ユダヤ人は、發生以來、惡の權化といふことになるのでせうか。私は、嘗て英會話の教師がユダヤ人であつた以外、平素彼らと附合ひはありません。しかし書物による知識から、今まで先生とはまるで違ふ見方をしてきました。

國際金融資本の主な擔ひ手はたしかにユダヤ人でせう。それが現状であることも、惡の限りを盡してゐることも疑へません。しかし、淵源に遡れば、自らの意志で積極的にその領域に進出したとは思はれません。ローマに滅ぼされたあと、(主として)キリスト教世界では彼らに職業選擇の自由は無かつたのではないでせうか。まともな仕事に就くことは許されなかつたと聞いてをります。そして、御承知のとほり、キリスト教は金錢を卑しむ宗教です。「金」なんて穢らはしい!まして、金貸しなぞ人非人のやること。ユダヤ人にでもやらせておけ――さういふお目こぼしにより、しかたなく、「金」を扱ふことを生業にするやうになつたのではないでせうか。今日の國際金融資本の源は、人非人とされたことにあり、といふのが私の理解です。

私は以前、それほど眞劍にではありませんが、ユダヤ教に改宗しようかと考へたことがあります。戰後の我が國のだらしなさに苛立ち、イスラエルといふ國の勇猛さに憧れたためです。一發毆られゝば、十發毆り返す――なんと立派な! 我が国もさうあるべきだが、とても、それは望めない。なれば・・・といふ次第でした。割禮とやらが痛さうなので、見送りにしましたが。

一度だけイスラエルを旅したことがあります。現地の人達と話をした際、冗談に次のやうな提案をしました。「日本とイスラエルで、100年間に限り、領土を交換してみてはどうだらう。100年後にもしも領土が減つてゐたら、その分、賠償金を拂ふ、殖えてゐたら報償金を貰ふといふ條件で。それをやれば、我等日本人は、敵に圍まれて生きてゆくことの苛烈さを理解するだらう。一方ユダヤの人々は、麗しい、優しい自然の中での生活の仕合せが身に入みるのではないか」と。彼らの答は ”Excellent!”と贊成でした。

シェイクスピアの『ヴェニスの商人』にはかなりの偏見があると考へてきました。けれども、ユダヤ人にイヤな奴が多いのもたしかでせう。彼らに頻繁に接する機會のある人達は、ほとんどがそのことを言ひます。私の姉は「セコイ!性格惡い」と申します。これに對して私は「當り前だ。あれほど迫害されつづけて、いい性格でゐられるか」と言ひ返し、喧嘩になります。外國勤務の長かつた俳句友達は「ヒトラーの最大の罪は、ユダヤ人絶滅を成し遂げ得なかつたことだ」と言ひます。自らの體驗に基く言なので、實感はこもつてゐます。

福地先生の結論は我が俳友のそれと似たやうなことになるのでせうか。また、本質的に惡の民族(私は、我等日本人以外の全て、就中支那人、朝鮮人について然りと思ひたいところですが)といふものはあるのでせうか。どこにも、好ましい人、好ましくない人はゐますが、その比率とか程度の問題ではなく、またどんなにいい人達でも、一旦集團になるとがらりと變るといつた見地からの議論でもなく、民族の本質論としてどうなのでせうか。

ヤハヴェ告げて曰く「イェルサレムの地を汝らに與へむ。彼の地のエブス人を討つべし」。なんともひどい話で、エブス人はたまつたものではなかつたでせう。しかし、この種のエゴイズムは、ユダヤ人・ユダヤ教に限つたことではないのではでせうか。

お教へを頂ければさいはひです。

最後に、上記の旅行の際、ホテルの浴室に日本圓で現金20萬圓を置き忘れ、二日後遠方から取りに行つたら、そつくり出てきて(歐米のホテルでは、普通考へられないことではないでせうか)、流石に「汝、盜むなかれ」の教へが活きてゐると感心したことを附記します。更に、返して貰つた證據として、何か書類があればサインしようと申したところ、その必要はないとのことでした。

       文責:池田 俊二
posted by 坦々塾事務局大石朋子 at 07:31| Comment(17) | 坦々塾報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
池田さま
本来の漢字でのご表記、戦後教育に馴らされたものにとって昏惑のこと聊かあらしめざらんことなからん体たらくではありましたが、池田さま一流のユーモアに助けられ、興味深く読ませていただきました。

戦後の常用漢字は「芸」や「体」など身も蓋もなく略化してしまいました。池田さまのこだわりに感服いたすとともに、馴染まない自分に落ち着きを失しています。
日本語の変化のスピードは速いのでしょうね。同時代を生きているはずなのに、深い溝を感じてしまいました。

さてご感想(断想?)を読ませていただきながら、あのベストセラー「日本人とユダヤ人」(イザヤ・ペンダサン山本七平訳)や遠藤周作の「沈黙」を思い起こしました。
ユダヤ人と対比して日本人論を語った前者ですが、日本人の宗教観、それは日本人を中心とした宗教であって、キリスト教でも仏教でも全て日本教に組み込む、日本人の究極の概念は神よりもまず人間、神を人間に近づける形でしか日本人は神を理解できない、とする主張は今も深く心に刻まれています。
また後者の『沈黙』の中の・キリスト教の神は日本人の心情の中でいつか神としての実体を失っていった・彼らが信じていたのはキリスト教の神ではない。日本人は今まで神の概念は持たなかったし、これからももてないだろう
という囚われた神父の言葉もイザヤ・ペンダサンの主張に通じます。

私は日本人はその淵源においてキリスト教を凌駕できるが、ユダヤ人はそのコンプレックスから解放できないだろうと
思っています。一見軟弱な日本人が本当は強い!とおめでたくも信じています。

           萩の露


Posted by 萩の露 at 2009年09月10日 13:17
萩の露さんへ

拙文にコメントを賜り忝けなく存じます。
まづ、小生の「こだはり」をお襃め下さり、嬉しうございました。
今年は、歴史的假名遣、正字體に轉向して49年になります(福田恆存著『私の國語教室』が出版されて49年)。私も「戰後教育に馴らされた」ので、當然、初めは、「現代かなづかい」等になんの疑問も感じませんでした。なんとなく歴史的假名遣の方がいいのではないかと感じ始めたのは、高校1年の時だつたでせうか。ただし、それはあくまでも「なんとなく」で、理論的根據も考へる能力も一切持ち合せてゐませんでした。その數年後『國語教室』が出るとすぐに熟讀し、これだ! と確信を持つて轉向した次第です。
敗戰のどさくさに、インチキ國語屋によつてでつち上げられた「現代かなづかい」のでたらめにして不合理なること、歴史的假名遣の合理的にして正統なることは、拙著『日本語を知らない俳人たち』でしつこく説きましたが、その大部分は福田恆存、萩野貞樹兩先生からの引用です。萩の露さんが國語の問題に關心をお持ちなら、『私の國語教室』(現在は文春文庫に這入つてゐる筈です)、萩野貞樹著『旧かなを楽しむ』『旧かなと親しむ』(どちらもリヨン社)をお讀み頂けないでせうか。福田の後記に「正直の話、本を一册書きあげたところで、一度崩れたものが容易に正しきに戻りうるとは考へてをりません。しかし、五十年、あるいは百年たてば、考へなほすときがくるだらうと思ひます」とあります。その五十年まで、あと一年だと思ふと、感なきを得ません。大袈裟に言へば、悔し涙が出ます。
西尾先生に對して「歴史的假名遣、正字で原稿をお書きになるべです」と申し上げて御不興を買つた次第、「江戸のダイナミズム」の雜誌連載中、かなづかひの部分について異議申立てをしたをした次第は、以前本欄に書きました。これをお讀みになつた西尾先生から次のやうなおはがきを頂きました。

・・・仮名遣いが世の論争テーマであれば、私の投じた一石――福田批判を含む――は問題になる筈でしたが、今は波も立ちません。
  現行仮名遣いを正しいとは決していえませんが、(歴史的假名遣の基礎となつた)契沖仮名遣いも唯一絶対ではありません。いろい
  ろ考えるべきことが多々あり、今はこのテーマはむし返す情熱がありません。・・・

 先生のおつしやるとほりで、歴史的假名遣にも問題點はあります。しかし、「現代かなづかい」に較べれば、100倍もよく出來てゐることは間違ひありません(一例だけを擧げれば、この「間違ひ」。「現代かなづかい」では、「間違わない」「間違います」「間違う」の如く、活用により、ワ行になつたり、ア行になつたり、コロコロ變ります。言語の原理からして、あつてはならないことです。一方、歴史的假名遣では、ハ行で一貫してゐます。「は」「ひ」「ふ」です。”critic” ”criticism”のやうに、音は變つても、字は變へないのが表記の原則です)。それよりも、これほど大切なことについて、「今は波も立」たないのが殘念です。
勝手な熱を吹きましたが、肝腎の御本旨については何も申せません。『日本人とユダヤ人』『沈默』は、一通りのことは承知してゐるつもりですが、深く考へたことがないからです。たしか「泥沼」といふ言葉が使はれてゐたと記憶しますが、如何なるものも、日本に這入つて來ると、その本質が變つてしまふといふやうな
趣旨だつたのではないでせうか。これに對しては、多分さうだらうなと思つた程度です。
おつしやることと關係なく恐縮ですが、キリスト教はヤダヤ教からユダヤナショナリズムを捨て去り、普遍的世界宗教になりました。しかし、宗教でも政治でも
仇役が必要です。その唯一の仇役に選ばれたのがユダヤ人でせう。新約には、「人殺し」「裏切り者」「嘘つき」等々、ユダヤ人を罵る言葉が溢れてゐます。私は嘗て「秋暑し聖書に多き呪詛の文字」と駄句を詠んだことがあります。新約を眞面目に讀んで、それを實踐しようとすれば、究極ではヒトラーと同じ道を歩むことになるでせう。實際、ナチのユダヤ人迫害の手口にはオリジナルなものは一つもありませんでした。全てキリスト教徒からの借用でした。
イスラエルに行くと、キリスト教は今も新興宗教扱ひです。そんなものにしてやられたことについて、「パウロがいけなかつたのだ」と悔しさうに言ふ人もゐます。我々が創價學會から牛耳られるのを快しとしないやうなものでせう。
益々お説から離れてしまひました。論據は十分に理解できたとは言へませんが、「日本人はその淵源においてキリスト教を凌駕できるが、ユダヤ人はそのコンプレックスから解放できない」「一見軟弱な日本人が本當は強い!」と、萩の露さんとともに信じたいものです。
支離滅裂なことを書き毆り、申し譯ありません。




Posted by 池田俊二 at 2009年09月11日 15:03
池田様
縁あって、昭和46年初版の「教育勅語絵巻物語」に資料として収められている明治23年、教育勅語が渙発せられた直後の社説の解説を頼まれました。戦後教育世代が大勢を占める今、読み取れる人はほとんどいないだろう、という理由から改訂版が求められたようです。
今手元に福田恒存の「私の國語教室」があります。福田先生の「現代かなづかい」はかなづかひではない!不合理と不徹底と論理的混乱をもたらしただけだ!という言葉は、確かに力強く、迫ります。
しかしながら歴史的仮名遣ひの明治23年の漢文調の社説は大仰で滑稽とさえ感じました。当時の漢文の書き下し文的表現法は決して日本的とは謂えないと感じています。
江戸時代におこった国学ルネッサンスもシナ語を本とした表記に千年近く馴染んできた我が国は文化的に侵食されているのではないかと、感じたからにほかないと思っております。
社説の解釈をしながら、「万葉集」「源氏物語」の大和言葉から本来の日本文化を取り戻そうとした国学者の心情を思いました。
今の現代人の文体は欧米の翻訳文に影響されていて問題を指摘する識者をおられますが、シナ語の書き下し文にも問題は多いと感じます。
ほとんどの方が読みにくいと感じるようになった今歴史的仮名遣ひのこだわりは独善的と
思われないだろうかと案じています。
こちらこそ勝手な持論で申しわけありません。
       萩の露
Posted by 萩の露 at 2009年09月11日 16:18

萩の露さんへ

「ほとんどの人が読みにくいと感じる今歴史的かな遣いへのこだわりは独善的と思われないだろうかと案じております」との仰せは,ごもつとも至極で、全く同感です。
「ほとんどの人」が「今」、破棄への情熱を失つてゐる「日本國憲法」に似て、「現代かなづかい」を捨て去ることは難しい。否、憲法の場合の何倍も難しいと思はれます。
「現代かなづかい」は、文字を持たなかつた繩文時代の「長期にわたつて存在したことは疑いを容れない」(西尾先生『江戸のダイナミズム』)音聲言語としての日本語をといふよりも、そこに土臺をおいて連綿として發展してきた日本語を容赦なく侵蝕してをります。單なる字面の問題ではありません。「言語の根源は音であつて、文字ではない」(同書 )ことも、疑ひを容れませんが、その根源そのものをぶち壞してゐます。實例は福田、萩野兩先生の著書に溢れてゐますから、よく御存じでせう。ここには、一例だけを、西尾先生の同じ御著書から引用するに止めます。

・・・大切な問題点の一つに、現代かなづかいは単純化ですから、古くからある音を殺してしまうという福田恆存の指摘があります。
   「あおる(煽る)」はむかしは「あふる」でした。私にも記憶がありますが、[fu] の音がかすかに残っています。「お」と書い
   てしまうと音の曖昧な領域を消してしまうことになる。「思う」も「思ふ」というハ行活用の方が本来の音を残しているように思えて
   なりません。・・・

 私は、國民・民族を支へる根源は、その固有の言語であると確信してゐます。これを失つた時は亡國の時です。從つて、「根源」を毀損し續ける「現代かなづかい」を捨て、「正しきに戻す」(福田著『私の國語教室』)こと(歴史的かなづかひがすべて「正し」いとはいへませんが)以外に日本の再生はあり得ないと考へます。勿論、それが「獨善的」であることは承知の上です。
しかし、「ほとんどの人」が、「根源」を顧みず安易な道を歩み續ける現状に鑑みて、「再生」は夢のまた夢です。100%近く絶望してをります。ここで、第15囘坦々塾での水島總講師のお言葉を思ひ出しました。「明治(維新)は夕燒であつた」。まことにそのとほりで、ほんの一刻にしても輝いたので、『夜明け前』の藤村の如く「朝燒け」と勘違ひした人がゐましたが、やがて夜に這入りました。そして闇は深まるばかり。今後どこまで深まるのか、計り知れません(「現代かなづかい」の如きアイディアは「夕燒」以前にもありましたが、「夕燒」のあと、一段と力をつけました)。
「朝の來ない夜はない」とも言はれます。さういふ朝が來ないとは斷言出來ません。しかし、いつ、どのやうにして來るのか、今の私には全く想像がつきません。少くとも私の眼の黒いうちには來ないでせう。この闇は永久に闇のままで、いづれ我が國は亡ぶのではないかといふのが、私の僞りなき感想であり、感慨でもあります。


Posted by 池田俊二 at 2009年09月14日 00:01
お二人のやり取りを拝読しておりまして、何十年も前にある企業の創業者とお話して解せなかった事が漸くわかりました。「この国が駄目になったのは漢字を略しているからだよ、漢字は夫々意味があるのだから略してはいけない」と、それと
その方がお書きになられてベストセラーになったご本に私が苦言を呈しましたら、「君、あれは暫く前に書いたもので、最近書いたものがあるので是非贈呈したいから名刺を」と。
躊躇している私に、頂きなさいと言ってくださったのが、時の文化庁長官さん。
送られて来た本に、戦後教育が教育勅語を捨ててしまった事が、心の教育が出来ない所以だ、、、
というような箇所があり、えっ!教育勅語???

池田様、萩の露様のお話伺っていると、創業者の言わんとしていたことがとても鮮明になってきました。水島さんの講演の雰囲気も伝わってくるようで勉強になりました。


Posted by bunn at 2009年09月14日 09:13

 萩の露様にもbunn様にも、坦々塾での水島さんの講義を聞いていただきたかったです。

 浅野正美さんの「坦々塾報告(その3)」で、水島さんの「道元禅師『正法眼蔵』と私」の詳しい報告を日録に載せていただきます(21日or22日頃)ので、そちらも合わせてご覧ください。

 日録のコメントも、こちらのブログにお寄せ下さい。

  亀戸天神@坦々塾事務局 大石

Posted by 亀天(亀戸天神) at 2009年09月14日 12:58
 ユダヤ絡みの話題は、セレブ奥様のブログでも話題になって居ります(↓)。
http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-807.html
 「西尾vs秦」対談記事に絡めた拙稿は余所の掲示板に纏めてあります(↓)。内容の大半は書物からの引用。政治と軍事とユダヤ資本と。何かの参考になれば幸甚です。
http://otd2.jbbs.livedoor.jp/231124/bbs_plain?base=7326&range=1
 最後にこう書くのもなんですが、…「日録」新稿を拝読したら、却って福地先生の意図がよく分からなくなったのは意外でした。やはり福地先生御本人の寄稿でないと、細部のニュアンスは〜内容が内容なだけに伝わりにくいのかも?
Posted by 苹@泥酔 at 2009年09月17日 19:16

 苹@泥酔様

 日録の方は「報告」。
 坦々塾のブログは「感想」というようにご理解ください。

 福地先生のお話は、時間が足りなくて最後は次回に持ち越し?です。

今度続きを聞いて見たい…というところまでです。(笑)

   亀天@坦々塾事務局 大石

Posted by 亀天(亀戸天神) at 2009年09月20日 20:02
浅野さんの報告を読みました。

それにしても、坦々塾、濃厚ですねぇ。

水島さんの底に流れている宗教的な考え方も勉強になりました。自分がやるしかない・・・という考えで、今の活動があるのですね。

次回は是非参加したいなと思っています。
Posted by okusama at 2009年09月21日 17:29
 okusama様

 水島さんのお話だけでなく、宗教観が各々の国を支えていると思います。

 西尾先生のお話の中で、キリスト教との比較で宗教観について日本人とアメリカ人の違いを勉強しました。

 幼い頃、悪いことをすると地獄へ行くものだと教えられたことは、大人になって犯罪に歯止めがかかるのだ。と講義を聴きながら宗教観と犯罪について考えていました。
 もちろん、宗教が全てではありません。

 日本の伝統にある鎮守の森「村の鎮守の神様の・・♪」と子供のころ無意識に歌った歌にも意味があったということを、今になって勉強しなおしています。

 次回は懇親会に参加できない方の為にも、休憩時間を多めにつくって親睦できるようにしたいと思っています。

 是非、次回は坦々塾にもいらしてください。

   亀天@坦々塾事務局 大石

Posted by 亀天(亀戸天神) at 2009年09月21日 19:30
 多分、これ(↓)は水島講師御自身の稿なんでしょうね…。
http://archive.mag2.com/0000210954/20090913093350000.html

 そんでもって福地講師…。私も今度、続きを読んでみたいっ!(=亀天様に同感)
Posted by 苹@泥酔 at 2009年09月21日 23:41
苹@泥酔様

 そうなんですよ、坦々塾は三カ月に一度で半日、目一杯のお勉強なので、時間が足りなくなるんです。

 そんな訳で、試しに次回は余裕をもってプログラムを組むようにしようと思っています。消化不良って感じがしますよね?

 チャンネル桜のメルマガで、苹@泥酔さんが載せて下さったURLのものと同じ文章を読みました。多分ご本人でしょうと思います。

 私も坦々塾の後、『正法眼蔵』を読む、南直哉著 講談社 を買ってきまして、ゆっくり読んでみようと、今のところ「飾って」あります:(苦笑)

 ユダヤ問題も無知なもので、初心者向けのユダヤの本を買って、半分くらい読んだところです。(汗)

 GHQはよっぽどキリスト教を布教したかったのか、教会の中に青少年健全育成と銘うって、色々画策したことを知りました。

 話は変わりますが、10月31日に「やるんじゃなかった日韓併合」というシンポジウムが池袋で行われます。よかったら覗いてみてください。

村田春樹講演会
「やるんじゃなかった日韓併合」
10月31日(土)午後1時05分開場 1時20分開会
豊島区民センター(池袋東口 電話03−3984−7601)
会費1,000円(学生500円)
主催 外国人参政権に反対する会・東京
連絡先 090−7055−2500村田

マニフェストにも無いこと(外国人参政権)をやるんじゃないよ。国民を馬鹿にするなよと言いたくなりますよねー。

 メダカの卵が孵化したのですが、昨日半分死んでしまいまして、落ち込んでいます。

    亀天@坦々塾事務局 大石

Posted by 亀天(亀戸天神) at 2009年09月22日 00:32
 写本への言及があるので買ってきた浅野和生『ヨーロッパの中世美術』(中公新書)を見てたら、P.10にこんな記述がありました(→)。〜「「カトリック」とは「普遍的」という意味です。これに対して東ローマ帝国の伝統を継ぐ教会は、「正教会」と呼ばれます。英語では「オーソドックス」で、「正統的」という意味です。正教会ではピラミッド形の組織を作らず、いわば地方分権的です。」
 んでもって、「あら、そうだったのね」と。そしたら「プロテスタントはどうなのかしら」と疑問が湧いたんで、架蔵の本に何か載ってないものかと。…で、酒井健『ゴシックとは何か』(講談社現代新書)を見たらP.147にこんな記述が(→)。〜「プロテスタンティズムは、曖昧に混ざりあっていた中世の諸事象に明確な分断線を引き、分かれた二つの項に優劣の価値を貼り付けた。「選ばれた者」と「斥けられた者」、労働と非労働、正気と狂気。このほかに識字能力の有無という分断線も付け加えられた。」

 宗教って、ややこしいんだなあ。コリャ坦々塾の時間も足りなくなる訳だわ。そこにユダヤと道元が加わるだけで脳味噌パンク警報発令。予習も復習も際限がない。おまけに苹は聴講が苦手なタイプだし。聴いてるうちにあれこれ自前の考えが勝手に湧き出てきて、それが邪魔になって結局は三割くらい聴き逃しちまうの。要するに、時間を追いかけるのが苦痛なんだわ。その点、文字には時間が凍り付いている。…坦々塾ブログ、ありがたや。
 あと、GHQ以前にはイエズス会の宣教師が来てましたっけ。健全育成された青少年を伊達政宗がローマ送りにしたり。〜コチラとアチラ、双方の思惑はどんなふうだったのかなあ。GHQの時は「コチラ」の分が悪かったのに、アチラの思惑通りにならなかったのは見事と云ってよいのかどうか(それに比べて韓国のキリスト教は…)。
 …そう云や以前、こんなのを書いた事がありました(↓)。
> 失敗例は日韓併合あたりになるのかな。半島人は「日本人より正しく」日本語を使ったそうな。それもその筈、半島人には内地の方言リスクがない(笑)。だから「新しく作られた日本語」としての共通語を受容する際、日本語内部の混淆因子が存在しないので「純粋な」共通語だけを学べる。とどのつまりは「底が浅い」って事かしら。だからあちらはいとも簡単に「日本語を強要したニダ!」と非難できるし、日本側にとっても「標準語自体が新造語だった」分だけ「共に学ぶ」同一視傾向が「別のもの」を覆い隠した様にも思える。
 …以上は「つくる会」神奈川支援板より抄録(07/4/26(木)22:45)。こんなのゴチャゴチャ思い出して、こじつけたくなっちまうから聴講が苦手なんだ(自嘲)。
 外国人参政権については奥様ブログでコメントしました(2009/08/27 22:01)。そこではなるべく多くの人に読んで欲しいデータを引用しました(読んでね♪↓)。
http://celebokusama.blog17.fc2.com/blog-entry-798.html#comment
Posted by 苹 at 2009年09月23日 14:46
苹@泥酔様

そーなんです。宗教はややこしいんデス。

 亀も聴講は苦手ですが、人並み目指して勉強しているのです。(汗)

 そうですね。文字にすると復習できるので、亀も助かっています。日録に「報告」を書いて下さっている浅野さんは、半日の坦々塾の講義の時間中、カメラも担当して下さっているので超人的集中力と記憶力だと感心しています。

 特に日録は「報告」なので、読んで下さった方が坦々塾の雰囲気を掴んでいただけることと、受講生は復習出来ることが一番の目的です。苹@泥酔さんにも喜んでいただけているようで、亀もうれしいです。♪
 日録はokusamaに全面的におんぶにだっこで、いつも感謝しています。

 こちら(坦々塾ブログ)では報告という項目ではなく、あくまでも「感想」というように分けています。

 苹@泥酔様さんのokusamaブログのコメント読みました。よく勉強なさっているのですね。
 数字でというか、データを比較すると色々な物が見えてきます。またゆっくり見させていただきます。

 亀は女子校でしたが、なななんと校歌が讃美歌でした。滑り止めで友人に付き合って入った学校でしたので、良く調べずに入学して驚いた記憶が蘇ってきました。(笑)

 アメリカのキリスト教化は、今思えば色々なところで進んでいたのですねー。残念ながら亀はキリスト教には入信しませんでしたが。(笑)

 では、又のお越しをお待ちしております♪

   亀天@坦々塾事務局 大石

Posted by 亀天 at 2009年09月23日 20:44
 なんか内心「しつこい男ってキライ!」と罵られそうな気がするけど(汗)、思い浮かんじまったものはしょーがないんで、構わず書き散らしときます。
 奥様ブログに書いた外国人参政権ネタでは、今と同じ危険が戦前もあったのではないかと思い至った事に別の驚愕をおぼえました。もし「フランス人の三分の一が外国出身者」ってぇのが本当なら、EUと大東亜共栄圏を比較すれば何が見えてくるのかと。関東大震災での朝鮮人イメージと、先年のフランス暴動とではどうか。朝鮮人のみならず支那人までもが大東亜共栄圏完成後の日本に流入したら(つまり日本が勝っていたなら)、今と似通った不安が半世紀前の日本をいっそう深く剔っていたのではなかろうか。…この場合、例えば三島由紀夫なら何を考え、どんなふうに行動したのかしら。三島と鳩山が同じ名前なのはどうでもいいけど、取り巻く世界は一方が大東亜共栄圏で一方が東アジア共同体。こうなりゃヤケだ、皆様パラレルワールドにようこそ(爆)。
 そこにアメリカの南北戦争を持ち出すと、感想・妄想は西尾先生の見方にも絡んでくるのかしら(汗)。〜台湾や朝鮮半島は戦勝国日本の領土。満州国は同盟国で、アメリカは敗戦国。そんな架空世界の話でござんす。アメリカに北部と南部がある様に、日本にも東部列島と西部半島がある。この際、海は関係ない。なぜなら在日朝鮮人は、内地朝鮮人に相当するのだから。…ここでの朝鮮人は日本国民である。ならば選挙権があって当然。すると先の八十年代後半資料に見る朝鮮半島(韓国4200万人、北朝鮮2200万人)と内地(日本12000万人)との割合が35%と65%ってぇのは、要するにフランスの三分の一と大差ない事になる。これが何を意味するか。恋は盲目、海で盲目。ならば首相の語る「愛」はどうなのか。そうした視点から鳩山世界を鑑みれば、「既に半島人参政権の実現した世界」という過去(?)には相応の可逆的インパクトが仮構できる筈。
 しかるに、これをアメリカ的な移民問題の土俵で捉えればどうなるだろーか(以下略…そこから先or前の話はこちらに転載して置きました↓)。
http://otd2.jbbs.livedoor.jp/231124/bbs_plain?base=7636&range=1
http://otd2.jbbs.livedoor.jp/231124/bbs_plain?base=7637&range=1
Posted by 苹@泥酔 at 2009年09月24日 22:51
苹@泥酔様

 「しつこい男」=「まめな男」かもしれない。。。。よ。

 亀は脳味噌が理数系なので、読んで理解できても、御返事の文章を書くのは苦手なのです。

 読んでいると、難しすぎて違うことを考えてしまう(誰かさんも話を聞いていると他のことを考えるというんで理解していただけると思うけど)(笑)。

 一冊の本を読むと解らないことだらけで、その為に参考書(関連書物を購入して散財)家中本だらけ状態です。その割に実にならないけれど。(笑)

 亀は人生死ぬまで勉強と、己に言い聞かせて生きているのです。

 時間を作って苹@泥酔さんのコメントを熟読してみますねー。

  亀天@坦々塾事務局 大石

Posted by 亀天 at 2009年09月24日 23:36
 「売家と唐様で書く三代目」…有名な川柳だが、ググってみると「唐様で売家と〜」って順番のも出てくる。ここに出てくる「唐様」とは何だろうか。「書く」のだから「字が唐様」ってのは分かる。では、どんな字を指すのか。今夜はその辺の雑感を一つ。
 幕末期の江戸では市川米庵の書風が武家の教養と深く関わっていたが、巻菱湖のはどちらかと云えば庶民に浸透していたらしい。それが明治維新後に国定手本やら何やらの主流を占める様になっていった訳だが、中には「福沢諭吉が菱湖流を好んだ」との説もあるらしい。和様に比べれば唐様は漢字、それも楷書のが多く見られる。ところが幕末期の読み物には行草平仮名交じりが目立つ。そうした雑駁な印象からしてみれば、楷書で書かれた漢文の版本はおしなべて唐様だったのかも知れない。そもそも和様の楷書なんて見た事ないぞ。だから書き手が本来は御家流であっても楷書で書けば唐様って事になったのではないかと、私はそんな可能性を疑うのである。
 真偽は定かでない。同じ行草の領分で和様と唐様を云々できるかどうかすら取っ付きにくいのに、まして平仮名ともなれば、そもそも仮名の唐様なんて代物を想定する方がおかしい。ところが唐様の筈の巻菱湖は、実のところ大量の仮名手本を出版しているのである。古今和歌集から実用書翰文まで、その幅はたいそう広い。そうした菱湖の仮名には版本の他にも条幅などがあって、こうなると和様と唐様の区別を書風のレベルで済ませる訳にはいかなくなってくる。
 そこでこの際、楷書を唐様の象徴と捉えてみる。すると別のものが見えてくる。当時の一般的な「漢字仮名交じり表記」に楷書は用いられない。楷書には片仮名が相応しい。つまりここでは片仮名と平仮名の差異が、唐様受容史のキーポイントとなって浮上してくる。漢字ばかり見るから仮名が度外視され、仮名と漢字の関わり方が自動的に歪曲されるのではないか。楷書と平仮名の不倫結婚(!)が明治時代の文教政策とどう関わったか、それ自体が書字から活字への劇的遷移のドサクサに紛れて隠蔽されてきたのではなかったか。それを戦後に引きずる過程で、戦前からあった仮名遣い変更の動きが更なる隠蔽効果を発揮した。だから多くの保守的国語論者は仮名遣いや新漢字の問題にばかり拘泥して、その前史を見ようともしない…かの様に見えてくる。
 西尾先生と福田先生との違いに底流するものは、存外そうした所にもあるのでは…と、浅野様新稿の特定センテンスを拝読してビビビ、ウッカリ脱線と相成った次第(汗)。なんか場違いな話になったかも?〜てな訳で、本稿は取り敢えず池田様の記事コメント欄に連ねます。
Posted by 苹@泥酔 at 2009年10月21日 03:38
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