2009年09月08日

第十五回坦々塾感想西沢裕彦


西尾塾長の講演「宗教戦争としての日米戦争」によせて

坦々塾会員  西沢裕彦

 常々思うことは、三カ月のインターバルで、西尾幹二先生が主宰されるこの坦々塾は、「歪められた(歪んだ)言論空間」、つまりあれこれのトラブルや批判を回避することに意を注いでばかりいて、身過ぎ世過ぎで思うところがあってもそのまま述べず、そんな自己抑制をしているうちに、思うこと自体が歪んでしまった人たちの言論空間、それとは異なる、まっとうな議論が交わされる稀有な場であることです。


 さて、9月の坦々塾での西尾塾長の講演のテーマは、「宗教戦争としての日米戦争」でした。
19世紀はまだ、「アメリカ」と言えば「ラテンアメリカ」を意味していたこと(当時北アメリカの人口500万に対してラテンアメリカは1700万)、第一次世界大戦開始時までアメリカは、インディアン(などの有色人種?)を強制的に隔離居住させていたこと、アメリカの「政教分離」の「教」とは無数にあるキリスト教系の教派・教会のことであり、日本人が「宗教一般」のことだと思っているのとは実態が違うこと、ジョン・オサリバンがメキシコからテキサスを奪うアメリカの行為を正当化するために創った言葉「マニフェスト・デスティニー(明白な使命)」は、「征服の密教」となったことなど、はっとさせられる教示が随所にあるビビッドな講演でした。

 西尾先生は、米国人の宗教観について、それと日本人の宗教観の比較について、詳細に語っていましたが、おそらく近々どこかに書かれるでしょう。

 この小文では、講演中で筆者(西沢)が興味を惹かれた、日本における古代中世の神仏合体思想の「本地垂迹」と、日本近世・近代の宗教観の動向について、以下に補足して述べ、最後に講演中で詳述された水戸学(『大日本史』)にみられる歴史認識について触れたいと思います。

 「本地垂迹」とは、日本の神々と仏は別のものではなく、両者は一体でその主体は仏であるとする思想です。たとえば天照大神の本は、大日如来もしくは観世音菩薩とされました。
先ごろ亡くなった折口信夫の弟子筋にあたる海老沢泰久氏は、長編小説『青い空』の中で、これを「へ理屈だ」と喝破しています。

 本地垂迹は、神道を抑えようとした仏教勢力が無理やり拵えた作りごとである面は否めません。なぜそうなったのか、その理由を折口信夫は「神道は自覚者を持たなかったからだ」と言っています。宗教理論の発達した仏教に、理論を持たない神道が呑みこまれて行った哀れな成り行きが「本地垂迹」です。

 しかし唯一、神道の自覚者、理論家と呼べるのは平田篤胤でしょう。彼には学者に留まらない、神道へのパッションも持ち合わせていました。秋田藩出身の篤胤は辛苦と研鑽を重ね仏教に対峙できるまでに神道を理論強化しました。


 王政復古が宣せられて、仏教と神道の力関係は明治維新後、大きく変わります。明治政府は神政政治を目指し、律令制にあった神祇官を復活し、神仏分離令を出します。これが過激な廃仏毀釈運動を巻き起こしました。興福寺の五重塔がわずか2円(現在価値で五万円)で売りに出され、山王神社の神官らに目の敵にされた延暦寺は経堂や貴重な仏典や教具を大量に破棄、破壊されました。千年前の奈良時代の貴重な屋根瓦が剥がされて売りに出されました。

 それまで男性的な仏像として形象されていた天照大神は、明治期になりようやく女性らしく描かれるようになります。

 江戸時代キリシタンを弾圧しようとした幕府は、寺請制度によって、仏寺に農民・町民たちの信教管理を委ねます。それまで耕作して暮らしていた僧侶たちはこの制度を利権化し、檀家となった彼らにことあるごとに布施を要求し、高額の手数料で証文を出すなどして、働かずに富を蓄えるようになりました。このように不当な私利を獲て堕落した僧侶たちが、神官だけでなく一般の人々からも深く恨まれていたことが『青い空』に描かれています。維新後沸き起こった過激なまでの反仏教運動には、江戸時代の澱んだ社会背景が伏在していました。


 国学院大学卒後勤めた折口信夫記念古代研究所で研鑽を積んだ海老沢は、この小説の中に宗教論を差し挟んでいます。いわく「江戸時代には神社はなかった」と以下のように論を展じています。

 「神社形式の建物はあった。しかし、実体がなかったのである。幕末期、江戸には、町角の祠のような稲荷社も含めて、大小四百の神社があったが、そのうち独立した神社は百八十社ほどしかなかった。しかし、その多くは無人の小神社で、それ以外の、一定の格式を持っていたと考えられるような神社のほとんどは、神社として独立していなかった。寺院が支配していたのである。」と史実を詳らかにします。そして、その例として、赤坂の日吉山王大権現は天台宗の観理院が支配し、深川の富岡八幡宮は古義真言宗の永代寺、湯島天神は天台宗の喜見院、王子権現は古義真言宗の金輪寺を挙げています。それぞれに神主がいても、月例祭や大祭の神事は僧侶が行い、神主は何をすることもできなかったのです。

 また本地垂亦思想は、僧侶たちが考えだした「神社支配の法体系」で、日本の神は仏が姿を変えて現れたもので、神社に鎮座している神はすべて仏だとする「屁理屈」だと喝破します。でも、神主たちはその「屁理屈」に反論できなかったのです。なぜなら「反論したくとも、その根拠になる教義を持っていなかったから」です。折口信夫は、その不思議の理由を「成立の過程でも、成立の後も、宗教上の自覚者が出なかったからだといっている」と折口説を援用します。仏教は釈迦牟尼という自覚者が興した宗教で、教義を持たない日本の神を支配下に置くのは雑作のないことでした。神主たちは、それを黙って見ているしかなかったのです。僧侶たちは、徳川幕府による寺請制度によって、権力と経済力を握り神主を支配下に置く体制を完成しました。一方江戸時代に仏教の他、儒教が日本を支配していました。儒教は当時仏教をかなり排撃していました。これも維新後の嵐のような廃仏毀釈運動の火付け役となりました。

 そしてこれら仏教と儒教の批判者が賀茂真淵、荷田春満、契沖、本居宣長、平田篤胤らの国学者でした。宣長が「古書によって、近世の妄説をやぶる」と言った妄説とは仏教と儒教です。宣長によって聖徳太子以来見捨てられていた神道が千年の時を経て復活したのです。平田篤胤は二十歳で秋田から江戸に出て「艱難辛苦、云うべきよう無かりき」生活を耐えて、二十六歳のときに鈴屋大人(宣長)の著書に出会います。それは宣長の死の年でもありました。

 篤胤の宣長との顕著な違いは、初めから神道を宗教にしようとする意欲を持ちそれを自覚していたことです。つまり、折口のいう「自覚者」の御一人者だったのです。
篤胤は宣長より一歩進め、神道を宗教化して、儒仏に挑んでいったのです。篤胤は古事記を宣長のように字義通り読まず、その「自覚」に沿って読み解きました。宣長においては、信者が一方的に奉仕するだけだった神道を、篤胤においては、信者に報いる神を出現させました。こうして篤胤は、神道に宗教となるための契機を生み出したのです。
 
 幽世(かくりよ)と呼んだあの世で、神は幽霊、冥魂と呼んだ魂の安生をもたらす、という神学を立論したのです。幕末までの千年を掛けて、神道はここまで到達したのです。


 西尾先生は、講演で水戸学の集大成『大日本史』を取り上げて次のような興味深いことを指摘していました。

 水戸学は禅譲・放伐のシナ風革命史観に覆われた朱子学中心の前期と、そんな易姓革命よりも日本古来の神話的歴史観が卓越していた後期に分かれます。前期に活躍したひとりに安積澹泊(あさかたんぱく)がいます。かれは『論賛』を著して、歴代の天皇を道徳論的に叙述し批判します。天皇を批判しているせいか、同書は岩波書店の全集に入っていて、手に取るととても面白いそうです。それが後期になると、伊藤仁斎、荻生徂徠、賀茂真淵、本居宣長らの影響を受けて尊皇思想が高まり、「神の国」の歴史観が醸成されていきます。そして徂徠の卓越した思想から「志表」つまり制度的叙述に進化し、『論賛』を削除します。因みに前期の『大日本史』は、シナ風に本紀・列伝体をとり、天皇や重要人物ごとに記述されています。

 後期水戸学の時に、この題号の「日本」の部分が問題視されます。『大日本史』から「日本」を外し『大国史』で良いではないか、との主張が高まります。現在学校で「日本史」と呼ばれている科目は、戦前「国史」でした。現在ある「日本語学会」は2003年まで「国語学会」でした。

 この学会名の変更に、亡き萩原貞樹先生は大いに異を唱えました。萩野先生は『歪められた日本神話』を著して、世界のどの国もそれぞれ神話を有し、大切にしているのに、日本の学者はそれを為政者の作りものだと貶めて、素直に受け入れようとしない、とその背景を次のように鋭く指摘しています。

画像 010.bmp

 「神話は世界中どの國にもある。しかもそれを素直に受け容れてゐる。ところが日本だけは事情が異る。古くは津田左右吉から今日の歴史學者、梅原猛などの文學者にいたるまで日本神話に對して否定的な見解をもつ。神話は、その國の王統の起源に觸れたものが多いが、それが神話から現在まで繼續している例は日本を除いて他にはない。その事實と戰前の皇國史觀への反撥が日本神話に對する否定的な態度をとらせている。・・・いわく、日本神話は皇室の正統化を企圖して當時の政權がでっちあげたものである。いわく、持統天皇は位を孫の輕皇子に讓るに際して、その事例をアマテラスからニニギノミコトの天孫降臨として作り上げた。いわく八俣の大蛇神話は斐伊川支流の氾濫。さらに「王朝交替説」「皇室外來説」など”斷片的な史實”に結付けやうとする俗説・・・」


 萩野先生は、天皇家と繋がっている神話は作為のもとにねつ造されたものとしないと「天皇制」を受け入れることになる、と懸念する歴史学者や頓珍漢な文学者たちによって、日本の神話はあるがままに受け入れられず、否定されたり、曲解されている。そのことを世界の神話を博引して堂々と論証しています。その語り口は熱情的です。まるで「平成の平田篤胤」の観があります。因みに萩野先生は篤胤と同じ秋田の出身です。以上

          文責:西沢裕彦


posted by 坦々塾事務局大石朋子 at 04:00| Comment(4) | 坦々塾報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
リードで西尾先生の坦々塾に寄せる思いを語られ
三島先生が、奥様に言い遺されたという「神道で」
を思い起すような、論の進め方に西沢さんならではの坦々塾感想文
西尾先生のご講演からこれだけ多くのことが引き出されたことも
西沢さんの豊富な知識から泉のごとく湧き出てくる日本史の真実に
目から鱗でした。
水戸学も、三島さんが、楯の会を創設なすった頃の主要メンバーがそうであった様で
興味深く、ましてや平田篤胤においては、、、

そういえば、以前荻生徂徠のお墓を知らせてくださったのも西沢さんでした。
楚々としたとてもよいお墓だったことを思い出しています。

Posted by bunn at 2009年09月08日 09:04

西尾先生のご講義は、いつも新しい視点を持たせて戴ける内容で、楽しみにしています。更に、西沢様の感想文で理解が深まりました。

西尾先生のお話を伺って、アメリカは宗教的な国家であるという事がよく分かりました。日本人は、アメリカが宗教国家であるという事を、ほとんど意識していません。それが、日本人がアメリカを見る目を誤らせる、大きな原因の一つではないかと思いました。

日本にも、仏教や神道が一緒になった本地垂迹をはじめ、豊かな宗教の伝統があります。そういう宗教性を自覚することが大事だと思いました。
Posted by お涼 at 2009年09月08日 14:39

 西沢様

“篤胤 信淵 ふたつの巨霊 生まれし秋田の土こそ薫れ・・・・・”
秋田県立秋田高校の校歌です。

 主人も私も高校時代は勿論のこと折に触れ、誇らしく歌い続けてきました。

 われら秋田の民は、”ふたつの巨霊 ”の想いとともに、今なお、熱くあり続けているような気がします。主人について語っていただきましたこと、何よりも嬉しく心より感謝いたします。

 西沢様のますますのご活躍を期待いたしております。   
                                 萩野 京子


 *事務局へ伝言としてお預かりしましたメールを、許可をいただきましたのでコメント欄に書き込み転載させていただきます。

 萩野京子さんは、故萩野貞樹先生の奥様です。

    亀戸天神@事務局大石

Posted by 萩野京子 at 2009年09月09日 22:58
浅野様

道元禅師『正法眼藏』      水島 総

拝読しましまた。
水島さんをつき動かしているものがなんなのか、おぼろげながら判る気がしてきました。
理論武装もしないまま水島さんのお人柄にうたれて、水島さんの支援行動に走る私には、素晴らしいご報告でした。
Posted by bunn at 2009年09月23日 05:46
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