2009年09月06日

第十五回坦々塾感想足立誠之

西尾先生ご講義「宗教戦争としての日米戦争」を受講して

  坦々塾会員 足立 誠之

 西尾先生におかれては、毎回新たな視点から過去と現在にアプローチされておられ、そうした新たなご研究をこの勉強会で我々は真っ先に学ぶことができるわけです。知的好奇心、知ることの喜びがこれほど充たされる機会はありません。

今回のテーマ「宗教戦争としての日米戦争」は、開戦まえに遡り、当時の両国民の心がどんな状態であったのか、つまり戦争を行なう意思の背景に遡るもので、この解明なしにあの戦争を議論することは出来ないと思うのです。

 西尾先生の歴史へのアプローチは必ず「当時の状態はどうであり、当時の人々はどう考えていたのか」を徹底的に探求されます。昨晩は上手くまとめられませんでしたが、実に本質的なところへと突き進むもので前回の「国体の本義」を経て更に日米戦争について私ながら目が開かれた思いがします。
 
アメリカ人が「神に導かれた」民としての強烈な自意識を持つことは宗教問題について若干予習してまいりましたので、正にそうであると納得した次第です。
 
日本側はどうであったか、世間一般では昭和10年代に入り強烈な国体論が支配したがこれは明治政府以降の皇国史観に基づく右翼思想がその頂点に達したものと説明されてきました。
 
然しそれはそうではなく、ペリー来航に始まる列強からの圧迫に対して江戸時代に醸成された思想をベースにする尊王攘夷論が生まれたのですが、日露戦争後、そして第一次大戦、更には世界恐慌を経て日本が益々米国の圧力にさらされるようになったことへの対応としての"尊皇攘夷"であったとみることができるとのご説明には目から鱗が落ちる思いがしました。

 休み時間にメンバーの飯田さんに戦前の雰囲気についてお伺いしたところ、正にその圧迫されるということが理解できました。
 にわか仕立ての宗教についての予習では、聖書のパウロの福音書でパウロは心の内と外に違いがあってもよいという二分論を述べています。
これは「国体の本義」にもあるわが国民の、「直き心」から導かれる裏表のない言行一致とは正反対なものでしょう。
 ここのところの違いを無視して過去の歴史や現在、未来を論じることは意味がないのではないかと思います。
 この点について、打ち上げ会では福地先生と少しお話しましたが、「インテリジェンス入門」をご執筆された柏原さんにもご意見を伺えたらと存じます。

     文責:足立 誠之




posted by 坦々塾事務局大石朋子 at 16:04| Comment(0) | 坦々塾報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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