2009年04月11日

早速の失敗

 Topページをずらそうと思って色々操作していたら消えてしまった。
しかも奥様のコメントまで。(涙)

 急いで奥様に電話を入れて、もう一度コメントを入れなおしていただくようにお願いしたが、これが知らない人だった場合、削除されたと誤解を招いてしまう。

 パソコンって恐いな。。。

 そんな私がブログをやっていますので、皆さま暖かく見守ってください。m(_ _)m

         坦々塾事務局 亀戸天神
posted by 坦々塾事務局大石朋子 at 17:34| Comment(8) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
>亀戸天神さま
ブログ管理、本当にご苦労さまでした。

コメントの削除って、人によると人格否定と思われて、大事になった経験が何度もあります。

私なら大丈夫ですよ〜〜〜

今後もこのブログが発展しますように。
Posted by okusama at 2009年04月11日 22:08
淺野さんの「・・・言祝ぎて」、兩陛下に對する畏敬に滿ちてゐて、氣持がいい。更に、西尾先生の提起された問題を解決する責任は我々國民にありとの御説、全く同感です。
私は昭和21年に小學校に這入り、「天皇なんてバカにするのが偉いのだ」と教へられ續けました。從つて、天邪鬼として、もの心ついて以來、その逆をいくやうに心掛けてきました。毎年1月2日の一般參賀には、子供達を連れてゆき、「天皇陛下萬歳!」を叫びました。
但し、それは先帝陛下の時代ですし、反抗心以外に、自分なりの考へがあつたわけではありません。
平成も2桁を越えた頃、天皇主義者ではないが、制度としての天皇を肯定される西尾先生と、天皇絶對否定の編輯者がガンガンやり合ふ場にゐ合はせた私は殆ど口を出せませんでした。自分の意見がないのだから當然でせう。ただ一言だけ申しました。「今上陛下には感服しません。どうも戰後民主主義の香が芬々ですし、なによりも即位に當つて、『日本國憲法を遵守し・・・』などとおつしやるとは!天皇は憲法など越えた存在でせう。そのやうなことにお觸れになるべきではない」と(これは”日本國憲法”を惡む私にとつて當り前のことです)。
西尾先生から「暗愚の君が現はれることもあるといふのが當然の前提だ」とたしなめられ、まことにそのとほりなので、後は沈默を守りました。
爾來少しだけ勉強し、今では天皇は血統ゆゑにたふといのだと考へてゐます。「なにしろ神武天皇の血を引いてをられる、その出自は神話にあり。ゆゑに尊ぶべし」と思ふことにしてゐます。
昨年、西尾論文が大きな波紋をもたらした際
坦々塾のパーテイで、先生に一言だけ申し上げました。「東宮方面への御批判、ごもつともですが、今上も、『・・・を遵守し』などとおつしやいました」。「それは、ずつと程度が輕いよ」とのお答で、私はそのとほりだと納得しました。
未だ血統云々の考へに至る前、西尾先生、私の俳句の師匠、私の3人で飮んだ席で、我が駄句を披露しました。
先帝の在ましし參賀想ふのみ
今上の御世になつて、伺ふ氣がなくなつたと言はうとしたのですが、お二人から酷評されました。その理由は覺えてゐません。
ところで、淺野さんのお生まれになつた年、即ち兩陛下御結婚の年、福田恆存が「象徴を論ず」を書きました。「天皇は人間になつたと言ふ。それなら、一人の人間が多くの人間の『象徴』になるといふことがどうして起り得るのか」「『象徴』といふものはない。『元首』なら存在する。・・・『元首』なら、たとへ、個人的に氣に食はぬ『元首』がゐてもさいつかへはない」「大衆が天皇に日本の神を求めるならそれはそれでよいではないか。もちろん私自身はさういふ感情をもつてゐないが、さうかといつて、それをもつてゐる人が間違つてゐるとは思はない。・・・おたがひにとつて天皇は排他的なヤーヴェではない」等の言葉を滿腔の共感をもつて讀んだことを思ひ出します。
そして現在、血統ゆゑに天皇を重んじます、しかし今上を好きになることは出來ませんと申す自由は確保したいと考へてゐます。


Posted by 池田俊二 at 2009年04月11日 22:37
奥様

ありがとうございます。(嬉し涙)

操作を緊張して行うと、もしかして痩せるかも・・・などと過大な期待は止めておきます。(笑)

誤解を招かないよう注意して頑張ります。

     亀戸天神


Posted by 亀戸天神 at 2009年04月11日 22:37
>Topページをずらそうと思って色々操作していたら消えてしまった。

すみません、いらないことを書いてしまったようです。
Posted by 真面目に変わっている人 at 2009年04月14日 23:10
真面目に変わっている人さま

 とんでもないです。
技術が未熟なゆえの「ドジ」でございます。
 ラムズフェルド元国防長官の言葉で
『カスタマーが鋭い質問をすることによって情報組織は鍛えられているのだ。』
・・・というわけで皆さまの鋭い質問で、私も鍛えられて育っていきます。

 ありがとうございます。
これに懲りずによろしくお願いします。

            亀戸天神
Posted by at 2009年04月15日 01:13
>等々力孝一より

「早速の失敗」へのコメントでなくてごめんなさい。

 小生、或る文章を書き、その最終部分に次の記述をしました。

 この、「第二」の部分について、坦々塾の皆さんには、何を言わんとしているのか、容易にご理解いただけるかと思いますが、小生、書き方に何か不備があるように感じて、やや不安なのですが、どうしたらよいのか、分かりかねています。

「天皇信仰根本主義者(ファンダメンタリスト)」という言葉を使用したことから来るのだと思いますが、できれば皆さんの考え・感じをお寄せいただければ有り難く存じます。
 
<引用開始>
 霊性[注1]の代表としての天皇は、空間の頂点に固定された存在ではなく、いわば中空に浮いているような存在である。それが国家と関連づけられたときに、改めて国家のピラミッドの頂点に(君主として)位置づけられるのである。

そんなことをわざわざ言うのは二つの理由からである。

 第一は、天皇制否定論者の、穢多非人や部落差別などの存在を天皇の対極として位置づけ、あたかも差別の根源が天皇制度にあるかのような主張をみかけるからである。

しかし、今述べた通り、天皇の位置は、階層的な差別構造の中にあるのではなく、中空に浮いているのであるから、天皇の存在に対極の最下層の存在を必要としない。国家が、天皇を頂点に位置づける場合においても、そのために通常人の下に最下層を設定する必要はない。

差別、格差は社会が生み出すものであって、天皇が生み出すわけではない。国家は、せいぜい社会が生み出し存在する最下層を公認するだけである。近代国家においては、それの公認も否定している。

かかる主張は、本来社会的に解決すべき問題を、天皇制度の否定にすり替える、不当な政治主義・革命主義に他ならない。

 第二に、天皇は、信仰の対象にはなるが、それは超越的な信仰対象ではなく、また絶対的帰依を求められるものでもない。それは、右の西尾氏の文章の引用からも明らかであろう。[注2]

もとより信仰の自由は絶対であって、そのような信仰が存在することは事実であり、そのこと自体は差し支えないが、その信仰が天皇制度に対する唯一絶対の態度であるかのように考えるのは適当ではない。

そのような、天皇信仰根本主義者(ふりがな=ファンダメンタリスト)とも言うべき人達が、戦後天皇制度が貶められている中で、皇室の尊厳を守ってきた一定の功績は認められるべきであろうが、その信仰を他者に強要することになれば、それは有害というほかはない。

まして、他人の天皇制度に関わる主張やその用語をとらえて、むやみに「不敬」だの「朝敵」だのとレッテルを貼って非難するのは慎むべきである。
<引用終わり>

[注1]この文章では、日本人特有の「宗教観」「信仰」などを、「霊性」と表現しています。

[注2]この分の前に、西尾先生の「皇太子さまへの御忠言」よりの引用をしてあります。
       4月15日
 何とぞ宜しくお願いします。 
Posted by 等々力孝一 at 2009年04月15日 15:12
 初めまして。苹と申します。セレブ奥様(「日録」管理人様)のブログに紹介されてあったのを見て来ました。
 昨夜は初投稿を試みましたが、なぜかエラーが出て失敗しました。もし成功していれば或いは、いきなりディープな話題に土足で踏み込んだかの様な印象を持たれたかも知れません。その点では、むしろ失敗してよかったのかも。坦々塾ブログが西尾先生を囲む内輪のネット交流場ならば、非会員の私には些か敷居が高く感じられます。
 そうした印象を振り払って、新たに雑感を書いてみました。見方次第では失礼かつ不遜、或いは誰かを揶揄しているかの様に映るかも知れませんが、そうした意図は一切ありません。意図がないなら尚更悪質だとする見方も可能ですが、今は正直に書いた印象が悪質と映らぬ事を祈るのみです。
 今夜の稿はリンクを挟まず、なるべく短くしました。エラーが出ずにすんなり通るか、取り敢えず投稿実験してみます。(奥様ブログで誘って下さった事務局様宛〜昨夜の顛末はあちらに非表示投稿してあります。)

--------------------------------------------------------------------------------
 あれからどれくらい経つだろうか。西尾先生が「日録」で読書について書かれていた。ニーチェの話だった気がするが、私は総て忘れてしまっている。
 言葉は忘れても印象は残っている。言葉の軛から解き放たれた印象は言葉を持たず、逆に「印象が言葉を求める様になる」。他者の言葉に呪縛される段階は恐ろしい。しかし自分の印象が言葉を求める地平に他者は見えず、そこに居る筈の他者は自分や周囲のどこかに溶けている。それを強引に「今ここに在る他者」(今ここで読まれている生死超越的他者)と結びつけようとするから誤読が起こるのかも知れない。そしてやがて自稿を読み直した際のトートロジーが、自分と自分の相互誤読をも、後から他者(一即多の他者集合)へと転嫁せしむ。
 ここでは理解と誤解の両方が史実の抽出行為を体現するからこそ、西尾先生もまた同様に、様々な形で読まれ続ける。先生をニーチェの様に読むと先生は時に不要となるが、その不要性自体が逆に解釈根拠の「先生への転嫁」を遠ざけるなら、誤読の良し悪しもまた自ずと分明になってくるだろう。読書における他人の考えは誤読内容を読み手の印象に取り込みつつ惑わせる。にもかかわらず読まれるという事は、その文章に「読み」を遠ざけるほどの魅力(存在の力と言い換えてもよい)があるからではなかろうか。
 そんなふうに捉えるなら、坦々塾という危険人物の巣窟は常に坦々とあらねばならぬのだろう。大抵の場合は、そこに巣窟があるから危険人物となる。しかし危険人物となる前の「私」がそこに在るならば、「私」がそこを巣窟にするから危険人物になる、とも云える筈。我々は例外なく何らかの巣窟に属しており、その中には不可避の巣窟(と云うよりは監獄)も含まれる。
 印象が言葉を求める様に、危険が巣窟を求めるならば、印象と言葉の関係はどんなふうになりゆくのだろうか。魅力を坦々と言い換えたところでどうなるものでもなかろうが、どのみち巣窟に魅力がある事にゃ変わりはない。…人が集まれば必ず、そこには独特の雰囲気や風土が醸成される。「場の雰囲気」と「言葉の印象」の交わる場所で、一人の老人が殺害されなければよいが(…とエディプスに託けてみる)。
--------------------------------------------------------------------------------

 …念のため追記します。「殺害の危機」と形容した出来事はどなた様にもあり得る事ですが、西尾先生の場合は既に九段下会議や「つくる会」で経験済みかと察せられます。また重厚な雰囲気自体が洗脳効果を発揮する場合、そこで負けてしまうのは他ならぬ「私」(不特定の主観的一者)。〜その事についての雑感を書いてみました。
Posted by 苹@泥酔 at 2009年04月16日 02:30
等々力樣へ
池田俊二
このままでよろしいのではないでせうか。よく分りますよ。ファンダメンタリストは如何なる主義に基くにせよ、厄介な存在ですね。
これとの關聯で、貴文に強ひて難をつけるとすれば「信仰の自由は『絶對』」の「絶對」2字だけではないでせうか。
「絶對」とまで保證されるなら、自らの信條に反する者は全て「不敬」「朝敵」と呼んでもさしつかへないと勘違ひする向きも出て來る恐れがあるのではないでせうか。
西尾先生を「朝敵」と呼ぶ自由は(ファンダメンタリストに限らず)誰にもありませう。ただ、それによつて、己が知能程度を曝け出し、恥をかくことになると氣づかないのが「天皇信仰根本主義者」でありませう。
キリスト教にしても、もし聖書をマジメに讀み、そこに書かれてゐることを字義どほりに實踐しようとすれば、「嘘吐き」「裏切り者」「人殺し」たるユダヤ人は絶滅すべしといふ結論になるのではないでせうか。ヒトラーは明らかに、この「ヤハヴェ(ではなく、イエス)信仰根本主義」の影響を受けてをります。
信仰とか思想の問題については、「絶對」は避けた方がいい場合が多いのではないでせうか。もつとも、これらの問題こそ、「絶對」「唯一」に屡々繋がるので、むづかしいところですが・・・。
貴論では、「信仰の自由は尊重されるべきだが」くらゐで如何でせう。多分、生ぬるくて御不滿でせうね。
餘計なことを申してすみません。
Posted by 池田俊二 at 2009年04月16日 18:04
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。