2010年09月12日

台湾の秘境に旅して 松山 久幸


       <台湾の秘境に旅して>    
                   坦々塾会員 松山久幸

 7月初旬の6日間、太平山の会と私の所属する東京台湾の会の共催による「台湾秘境探訪の旅」に参加した。一般的な台湾の観光地は殆ど見てはいるものの奥地には分け入ったことがなく、今回の企画はその部分が主であると思い私は即座に応募した次第である。                                                               初日、成田・関西・広島・福岡の各空港から集まった総勢20名で2台の小型バスに分乗し桃園空港を出発した。高速道路で台北市内は通過して基隆の方へ向かう。台湾の高速道路は台北を中心として新しい路線がいつの間にか出来てしまう観があり、経済力の強さ、その実行力には瞠目すべきものがある。   
                                              スケジュールの都合で基隆には寄らないでまず金瓜石の廃坑を見学。今までこのような類のものは一度も目にしたことがなかったので、実に異様でまるで目の前に巨大な石窟寺院でも現れたかの如くだ。平成元年(1989年)、ヴェネチア国際映画祭でグランプリを受賞した台湾映画「非情城市」(二・二八事件がテーマ)はこの辺りと九份が舞台だ。  
                                              日清戦争に勝利した日本が清国より台湾の割譲を受け、北白川宮能久親王を総大将として日本軍が明治28年(1895年)、最初に上陸した地点はは宜蘭県の澳底にある。基隆には清国軍の砲台もあり迂回地点としてこの地が選ばれた。今は砂浜に記念碑とパネル表示があるだけだ。国道を挟んで向かい側には建設が中断したままになっている原発があった。海の向こうに亀の形をした亀山島を眺め宜蘭市を過ぎて間もなく最初の宿泊地の羅東に着く。幼獅大飯店にチェックインしたあと少し離れたところにある歓迎夕食会のレストランへと向かう。私達のバスが会場に到着するや太平山の会の人達と出迎えた台湾の人達が抱き合って再会を喜んでいる。私達一行が20名であるのに対し台湾側の参加者はおよそ30名。ここで私はこの旅が日台交流親善の旅でもあることを初めて知った。宴会が始まって場が盛り上がった頃に原住民出身の綺麗な淑女とのビールの合い飲みというのも初体験。台湾の出席者はみな日本語も流暢に話し、少し年配の哈日族と言ったら失礼だろうか。いや、大の親日家ばかりだ。お土産に台湾桧の箸を戴く。                                                                            翌日は羅東市内にある森林鉄道の旧竹林駅とその当時の蒸気機関車、客車、貯木場や駅員、営林署員の官舎などを見学。手を加えてはいるものの、往時の姿を殆どそのままに留めている。羅東営林署内にも案内され、3年前に太平山の会のメンバーも出演したテレビ番組のDVDも見せてくれる。署内に飾ってあった桧の巨木の年輪は何と千年以上のものもある。営林署の署長さん達の見送りを受けたバスは蘭陽渓沿いの道を登って行く。台湾には河と名の付くものは淡水河・基隆河・愛河の3つしかない。あとは全て○○渓であると言う。その台湾の川は山と山の間が全部川になっていて渇水期は真ん中辺をチョロチョロ水が流れているだけ。しかし一旦台風が来たり豪雨があったりすると山が急峻なだけにあっという間に恐ろしい水量になり、時には大災害を齎すこともある。広大な河川敷を利用して様々な野菜が植えられているが、大水が来たら収穫はゼロ。河川敷の所有権は政府にあり耕作は黙認の形。バスは山間の道を登り鳩之澤で昼食。寸暇を惜しんで東京台湾の会のメンバーと温泉に浸かる。少し乳白を帯びた温泉でぬるぬるした感じ。愈々バスは政府経営の太平山荘に到着。既に標高は2千メートルにもなっている。少しは肌寒いかなと思ったが然程でもなく心地よい澄んだ山の空気に満ち満ちていた。ここが原生林の太平山桧を切り出したところである。往時は多くの日本人も住み、公学校は日本人と台湾人が共学した数少ない中の一つである。当時、台湾ではそれぞれ別々の学校に通うことになっていた。太平山会の絆が深いのも頷ける。太平山から切り出した桧はトロッコで土場まで運び、土場から羅東(竹林)までは森林鉄道で、羅東から基隆までは鉄路で、そして基隆からは船舶にて日本に運ばれた。明治神宮や靖国神社の大鳥居や神門もそのルートで遥か台湾から日本に運ばれたものである。台湾に現在3つだけある内の1つのトロッコ列車で奥地に入り(他の2つは阿里山と烏来にあり)、鬱蒼とした桧の間を散策して森林浴も満喫する。映画「トロッコ」の中でこの場所も撮影に使われた。(映画「トロッコ」:台湾を舞台にして製作された日本映画で、家族の情愛を木目細かに描いた秀作である)。昔の倶楽部も資料館として大切に保存されている。そして夜は羅東営林署署長主催の歓迎夕食会。美味の料理に台湾ビールもうまい。山荘の部屋で気分よく冷房なしでぐっすり眠る。      
                                              翌朝、山荘を出発して間もなくの見晴から眺めた雪山は標高3,884メートルで富士山よりも高く嘗ては次高山とも呼ばれていた。お天気にも恵まれ連山の峰々がくっきり見え、一行皆がその雄大さに感動。太平山から下って来て蘭陽渓に近い辺りで嘗ての森林鉄道のトンネル跡や牛闘駅の跡も見学。駅舎は今は村の食品雑貨屋に変わっている。烏帽子に似た小山の傍にある営林署の出先事務所にも立ち寄る。日本統治時代そこは蛇毒研究所だったという。バスは山間の国道7号を下り留茂安・四季・南山・思源などを通って環山に至り、原住民の・秀美(日本名は小林淑子)さんの赤飯まで炊いての持て成しの昼食。またタイヤル族手製の帽子や小物入れなどもお土産に戴いた。バスは梨山・大兎嶺を通り合歓山へと向かう。大兎嶺から東へ行けば彼の有名な太魯閣渓谷に至る。急な山道。バスの中から眺める高い峰々も直ぐ其処にある感じで姿も実に美しい。合歓山展望台付近は標高3,000メートル以上。かくも高いところまでバスで登れるとは日本では考えにくい。高い山であるだけに見る見る内にガスが掛かってしまい、辺りは何も見えなくなったりする。道幅も狭く所々路肩が崩れたりで少し心細い。空港から態々小型バス2台で来たのもこの道路事情による。道はどんどん下って行き、霧社に至り事件を記念した公園を見学(「社」と言うのは「蕃社」のことで原住民の住む村や部落のことを言う)。その中央に原住民の頭目の大きな銅像があり、事件の英雄に仕立ててあるのには違和感を覚える。3泊目の宿は昨年夏に大水害にあった廬山温泉の天廬大飯店。水着着用の温泉は趣味に合わないので遠慮した。                

 翌朝はまず霧社事件の起きた現場に向かう。痛ましいその惨劇は昭和5年(1930年)のことで、幼い子供も含め大人の殆どが女性の134名の日本人が原住民によって計画的に惨殺された。事件現場の嘗て公学校だった所は今は台湾電力の敷地に変わり、入口近くの松の大木はその惨劇を目撃していたのではという気がした。事件後に派遣された軍隊も苦戦した人止関を見たあと、台湾の臍と言われる哺里近くで昆虫館を見学。枯葉と寸分違わない蝶が居て驚いた。昼食後、小型バス2台から大型バス1台に乗り換え九族文化村を見学。展示建物の中に居た日本語の達者な原住民のおじさんとツーショット。台湾の観光名所日月潭を暫し眺めたあとは高速道路を突っ走り一路南下。窓外の八田與一の建設した烏山頭水庫(ダム)の土手や奇怪な月世界などはあっという間に通り過ぎてしまう。間もなく高速道路の両側には檳榔樹がやたら生い茂っており、この実から作る檳榔を悩ましい姿の小姐が売る店が道路沿いに点々とあるのは台湾特有の光景だ。高速道路から海沿いの道に入り車城で山側に向かい程なくして降りた所に「大日本琉球藩民五十四名墓」がある。その墓までの小道も整備され真新しい鳥居まで建てられていた。墓守をしてくれている人は台湾人の関係者だという。頭が下がる思いだ。一行皆で線香を上げて其処をあとにする。この晩は四重渓温泉の南台湾温泉大飯店に宿泊。夕食会には原住民で元郷長・屏東県議員の華阿財氏も駆けつけてくれる。台湾ビールと紹興酒で乾杯乾杯。最後は華氏差し入れのドラゴンフルーツを美味しく戴く。華阿財氏は自身のパイワン族を徹底的に貶めたNHKのテレビ番組「ジャパン デビュー アジアの一等国」に憤慨し、NHKを提訴している中心人物の一人でもある。                                                 
 第5日目は華阿財氏の案内で明治7年(1874年)琉球藩民54名惨殺に対処する為に派遣された西郷従道の軍3,700名と原住民が戦った古戦場跡や琉球藩民殺害現場などを見る。そのあとバスは原住民部落のある牡丹社やクスクス(高士)社に分け入って行く。戦後この地に足を踏み入れた日本人はそんなに多くはいないのではと思いつつ。太平洋側に出たバスは琉球藩民の漂着した八瑤湾に面した海辺で停まった。風が恐ろしい程に強い。日本ではまさに台風並みの強さだ。屏東県満洲郷の小さな村に入り「高砂族教育発祥之地」の碑を見学。綺麗なお堂にしてあり原住民・台湾人の気遣いが心に染む。貓鼻頭の潮音寺では大東亜戦争時バシー海峡で米潜水艦や爆撃機の攻撃の為にその海に沈みあるいはこの近くに漂着した英霊に対し一行皆で線香を上げ黙祷を捧げた。境内にあるバナナの木がふさふさと青い実を付けていたのが何故か印象的である。台湾で大ヒットした映画「海角七号」の舞台となった恒春で昼食。恒春から国道、高速道路を経て高雄の左營駅に到着。其処から新幹線で1時間半、お喋りしている内に台北には着いてしまう。台北駅近くの華華大飯店に宿泊。外は暑いのでホテルの部屋で大好きな台湾マンゴーを賞味。味は格別であった。

 翌朝は二・二八記念公園、総統府、台湾銀行本店、旧台湾三井物産ビルなどを有志で見たあと全員バスで淡水へ。月曜休館で英国領事館だった紅毛城は外観だけ。李登輝元総統の事務所も淡水にあった。このところ民進党大物の出入りが多いと台湾人ガイドが教えてくれる。松江路のレストランで昼食を取り免税店に立ち寄ったあと桃園空港へ。一行は5泊6日の貴重で愉しい旅の別れを惜しみながら帰国の途に着いた。

 この旅が一般の観光旅行ではないと確信し参加したが、秘境探訪でその魅力をいやと言う程思い知らされただけではなく、日台交流親善をより一層深めることが出来、私にとっては望外の旅の連続でありました。 (了) 
posted by 坦々塾事務局大石朋子 at 18:00| 東京 ☁| Comment(2) | ゲストエッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月02日

『GHQ焚書図書開封4 宮崎正弘





;『天皇陛下万歳』と書いた箇所があるだけでも焚書にされた
  戦前の名著が徐々に復元され、蘇生されれば日本はきっと元気になる  


            GHQ焚書図書開封4.jpg

坦々塾会員でもある宮崎正弘さんのメルマガに、書評が掲載されていました。宮崎さんに許可をいただきましたので、以下に転載させていただきます。

  ♪
西尾幹二『GHQ焚書図書開封4 

「国体」論と現代』(徳間書店)

@@@@@@@@@@@@@@


 この労作シリーズの第四弾は国体論が中心にそえられた。

 通読してまず感慨深かったのは、昭和十年代にこれほど正正堂堂とした活発な論戦が日本の論壇で行われていたという動かしがたい事実である。左翼言論人らが虚ろにほえる“暗黒の言論封殺の日本”という批判は当たらない。

 とくに戦後の左翼史家がのたまわったような言論の封殺された空間はなく、それほどの暗い時代ではなかったのだ。

 GHQが禁書とした七千余冊のなかで日本精神を高揚するもの、歴史の由緒正しきを解説したものなどが「日本人」の検閲係(占領軍御用達の目明かし、岡っ引きですかね。GHQに雇われて米国に魂を売り渡した人々)によって広く排除され、日本人の目に届かなくなった。

 この書では「国体」「皇室」「天皇」「教育勅語」というキーワードが表題に入った書籍が国民の書棚から強制的に消された過程を調べ、それらに何が書かれていたかを復元し解説する。

「国体」を冠した書物をもっとも夥しく著しているのは里見岸雄博士。その門下生らによる「国体学会」はいまも健在、機関誌も連綿として続いている。

 文部省編纂の『国体の本義』は数年前から佐藤優氏が解題し、『正論』の連載を一冊にしたが、本書で扱う対象はもっと広く、国体論から大義論まで。城山三郎、太宰治の文学作品もでてきて視野が広く、且つ公正である。

 とくにこのシリーズ第四作で取り上げられた書物は『皇室と日本精神』(辻善之助)、『国体の本義』(山田孝雄)、『国体の本義』(文部省編)、『国体真義』(白鳥庫吉)、軍神杉本中佐の『大義』、そして戦後編として『大義』を捨てきれず戦後は、ウジウジと反省をしていた城山三郎の『大義の末』と、それと対照的に太宰治の『天皇陛下万歳』削除事件などへの考証がある。

 白鳥庫吉は杉浦重剛とともに昭和天皇にご進講した卓越した学者で、ふたりの共著二冊も焚書にされた。就中、白鳥の『国体真義』を西尾氏は高く買っている。


 ▲太宰治、城山三郎、山岡荘八

 太宰治は左翼が嫌いで、しかし人前では偽悪者ぶって、それでいてダンディでデカダンで、あまつさえ天真爛漫。でも本当は日本浪漫派に作品群は属するとみて良いのではないか。そして太宰の『パンドラのはこ』は改作、削除のあとがあることがわかった。それは作中に『天皇陛下万歳』とあるのが理由である。

これは戦後すぐに『天皇制反対』とか、『天皇の戦争責任』などと言い出した人々への太宰の冷徹でユーモラスな批判でもあるが、当該箇所がそのまま出版された昭和21年の河北新報社版が、同22年の双英書房版となると天皇陛下万歳はGHQによって削除され、昭和23年の育成社版では削除ばかりか改変があった
 評者(宮崎)はそういう事実をはじめ知った。 


 城山三郎は特攻に憧れ、予科練に志願し、しかし特攻になりそこない、戦後うじうじと、変節漢が気軽になした転向も出来ず、それでいて戦前に感動した杉本中佐の『大義』を捨てきれずに大切に隠し持っていたそうな。
そういう事実も本書を通じて初めて知った。

戦前、戦中、戦後を体験した城山三郎の複雑な心象風景を鋭利に分解してゆく西尾氏の弁証法的手法は鮮やかだと思った。

 評者は城山三郎の経済小説に限って言えば、デビュー作の『総会屋錦城』から『価格破壊』まで、全部読んだが、氏のイデオロギーをこね回したような作品群(『落日燃ゆ』)などはまったく読んでいない。なぜかよくわからないが、きっと心のどこかで城山が嫌いなのだろう。

 もう一人、山岡荘八の『小説 太平洋戦争』への痛烈な批判は同感である。通俗作家として縦横無尽の活躍をした山岡には駄作も多いが、こんにち中国で『徳川家康』全巻が翻訳され、大ブームとなった余勢を駆って『徳川家光』まで訳されていることは余談。


 さてGHQに協力して、権力を嵩にきた日本人は恥知らずだが、いまも論壇や文壇や官界に、権力の影に隠れてライバルを失脚させ、自己の保身をはかる傲慢な言論人がたくさんいるではないか。とくに朝日新聞とかNHKに。

 本書を読んで、「天皇陛下万歳」と太宰が書いた箇所だけが理由で削除された事実に遭遇したことは驚く他はない。

 ともかく戦前の名著がつぎつぎと復元され、蘇生されれば日本はきっと元気になる。引き続く第5巻が楽しみである。
 △
posted by 坦々塾事務局大石朋子 at 07:18| 東京 ☀| Comment(0) | 読書感想文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。