2010年01月28日

坦々塾新年会 鈴木敏明


    「十二年の計

    坦々塾会員 鈴木 敏明

 1月3日の坦々塾の新年会の時、皆さんの自己紹介がありました。その時私は、自分の計画をちょっと語りましたが、詳細を語ると以下のようなものです。



 「一年の計は元旦にあり」と言いますが、私のようにもう70を過ぎた人間には、1年の計では短すぎて、それだけで命が終わりそうな気がしてしまいます。私は今年、年男。今年の夏には72歳になる寅年です。次の寅年では84歳になります。男の平均寿命が79歳ないし80歳といわれていますから、次の寅年まで生きていられるかどうかわかりません。そこで私は、次の寅年の84歳を頭も体も元気で迎えるために12年の計を立てました。私にはなんとしても元気で百歳を迎えたいという強い思いがあります。それには二つの理由があります。



 一つはハングリー精神を発揮したい願望です。終戦時私は7歳の小学校1年生。ネズミと同居しているような借家に住み、父は重病、母は父の看病と私と妹二人を食べさせるために死に物狂いで働いていた。終戦直後の苦しい食糧難時代を語れるのはもう私みたいに70歳以上の人間だけになってしまった。日本では去年まで12年間連続して年間3万人以上の人が自殺しているのだ。私の子供の頃の時代に比べたら過去十二年間の日本などまさに天国みたいなものですよ。それが年間3万人以上自殺するのだから私には全く理解できません。



 子どもの頃は年中空腹で、栄養失調ぎみの虚弱児だった。成人しても虚弱な面が残り体力に自信がなかった。しかしハングリー精神だけは旺盛であった。旺盛なハングリー精神のある若者がボクシング、相撲、野球などで人生の花を咲かせていた。若いころ「俺にもあのような体力があったら、プロスポーツで花を咲かせることができ金持ちになれるのに」と何度思ったことか。学歴がないだけに余計にそう思う気持ちが強かった。そのうちに私は、「よーし、俺は、人が五年かかることを10年かけてやり遂げよう。そのために体を無理せず、気長に勝負しよう」という心境になっていった。そしていつか俺のすさまじいハングリー精神を見せつけてやる思いでいたが、それを見せ付けることもなく定年になってしまった。



 話は変わるが、プロスキーヤの三浦雄一郎氏は75歳でエヴェレストに登頂している。父親の三浦敬三氏は99歳でモンブラン系の氷河からスキー滑降、100歳ではアメリカのスノーバードとかいう山で親子孫曾孫4代のスキー滑降し現地で話題を呼んだ。私が元気で百歳を向かえたいというのは、ただの願望だけではありません。そのために体を鍛えています。その一端を話すと、私の一番上の孫娘は現在小学校5年、80メートルぐらいのかけっこをしても私は少しだけど余裕をもって勝つことができます。孫娘はかけっこ早くもなければ遅くもない標準です。腕立て伏せは、床に鼻先をつけて50回、腹筋100回できます。三浦雄一郎は75歳でエヴェレストに登頂したが、私は75歳までにはあと3年あります。現在より体がもっと鍛えられているでしょう。私が百歳になったら三浦氏の父親のようにスキー滑降のような華麗なことはできません。第一スキーなどはいたことがない。私は百歳になってデモの先頭に立って歩くという誓いをたてています。



 私が100歳まで元気よく長生きしたい理由がもう一つあります。私は高卒後いくつかの仕事を経験し、21歳の時の外資系の会社に就職した。今から50年前の外資系の会社は、まともなサラリーマンが勤めるような就職先じゃない雰囲気があった。大学新卒の人たちなどが外資系会社に勤めることなどほとんどなかったと言ってよい。外資系など水商売みたいなもので、1ドル360円時代が長く続いていたから給料がよかった。また給料がよくなければこのんで入社しようとする人も少なかった。終身雇用などまったく縁がなかったからだ。最初アメリカ系の船会社に就職したが、以来定年までの40年間、5社を渡り歩いていろいろな仕事をしてきた。今その40年間を振り返れば、私には愛社精神もなければ、仕事に誇りに思ったこともない、仕事にやりがいを感じたこともない、仕事における地位や名誉など眼中になし、ただただ給料が高ければそれでよい、まさに家族を養うためだけに働いてきたようなものだ。



 そのためだったのしょう定年2,3年前ぐらいになったとき、定年が待ちどうしくてしょうがなかった。いざ定年になった時はうれしくてしょうがなかった。贅沢な暮らしはできず、つつましい生活しかできませんが、働かなくても生活できることはこんなに楽しいものなのかを今でも実感しています。定年後6年かけて大作、「大東亜戦争は、アメリカが悪い」を書いて自費出版した。大好評でした。これが私の人生を変えた。これまで私は、自分に多少なりとも書く才能があるなどとこれっぽっちも思ってもいなかった。第一どこかに投稿したことすらなかったのです。この大作に引き続いて「原爆正当化のアメリカと従軍慰安謝罪の日本」と「逆境に生きた日本」を出版した。尊敬する西尾先生から「すばらしい筆力がある」とほめられたりしたのです。



 定年後になって生まれて初めて自分で誇りが持てる仕事を見つけたのだ。しかも働く必要ないからその仕事に没頭できるのです。こんなうれしいことはないじゃないですか。そこで過去40年を思い出すと、後悔とか無念な気持ちとかがわいてくるのです。自分の仕事に、はりあいや誇りなど感じたこともなく、ただ単に自分を含めて家族を養うために働いてきただけなのだ。ただ子ども時から定年までの波乱万丈な体験が、自分という人間の血となり肉となったことは確かです。それでも毒にも薬にもならい仕事をしただけという不満が残るのです。不満の残る40年間分を取り返したいという気持ちがわいてきます。その不満に感じる40年間を定年後100歳まで、すなわち定年後から40年間文筆活動で元気旺盛に活動すれば不満の残る現役時代の40年間を取り戻せるのです。これが100歳まで元気よく生きたい二つ目の理由です。



 そのためには、まず次の寅年の84歳を元気よく迎えねばなりません。そのために体力を鍛えていることはすでに申しました。その他に次の寅年までの12年間にやる次の四つの仕事の計画をたてました。



1.私は去年暮れまでに1年と2ヶ月間、毎週日曜日にブログ記事を更新してきました。毎月4回のブログ記事、14ヶ月間だと56作品のブログ記事を書いたことになります。その中で読者に好評だったものをとりあげ、それらをさらに修正、精査して、「日本について」のタイトルの下にエッセイに仕上げて出版しようと考えています。もうすでに原稿はできているのであとは修正、精査するだけですから今年中には出版できるでしょう。



2.5年後の2015年は、大東亜戦争終結70周年になります。拙著「大東亜戦争は、アメリカが悪い」を自費出版したのが2004年です。出版一年半後に出版社が倒産して絶版になってしいました。そこでその改訂版を戦争終結70周年記念に出版したいと考えています。



3.拙著「大東亜戦争は、アメリカが悪い」を読んだ人は、お分かりだと思いますが、本の帯には宣伝用として「私はいずれこの本を英文翻訳し、米英をはじめ英語を母国語とする国々の図書館に送るつもりです」と書いてあります。私はこの大作後、「原爆正当化のアメリカと従軍慰安婦謝罪の日本」と「逆境に生きた日本人」を立て続けに出版したため、この大作の英文化への取り組みがなんら進展していませんでした。ところがその間、これまで一面識もなかった鎌倉在住の篤志家、渡辺さんが、この本を読み私に連絡してきました。



 彼が言うには「私は英文翻訳が専門ではないが、自分の英語力と英文翻訳機を使って、この大作を英文化したい。またこの大作は、外国人の書いた本の翻訳本を多数参考文献として利用している。しかしこの大作の英文化の場合、日本語に翻訳された和文をそのまま英文化するのはおかしい。原文の英文をそのまま採用すべきだ。従って英文の原作を手に入れます。その費用は一切いらないからこれらの作業を自分にまかせてくれないか」



 こうして鎌倉の渡辺さんは、全文を英訳、参考文献の英文原作もほぼ90パーセント入手、しかも全部読破して私が参考文献としてとりあげた文章は、英文原作の何頁に書いてあるかまで調べつくしてくれました。彼が完成した英文翻訳が果たして使い物になるのかどうか、私たち二人は、読者の中にはご存知の方いると思いますが、実績のある「史実を世界に発信する会」に翻訳文を提出しました。そこで少しの修正で英文翻訳として通用するのか、あるいは全面的修正しなければいけないのか、チェックしてもらっています。当然英文翻訳コストに影響しますが、鎌倉の渡辺さんは、費用の半分は持つと言ってくれています。これまでの渡辺さんの努力には私は感謝感激の一言です。彼の努力がなかったら、私は英文化構想をあきらめていたかもしれないのです。



 ただ英文原稿完成までの費用は、なんとか二人でまかなえますが、これをいざ英文版の本にするには、いくらかかるかはいまのところ検討つきません。とにかく今は、英文原稿化優先の情況です。ところで大東亜戦争終結後60数年、これまでに日本の英語学者がくさるほど誕生したでしょう。その中に誰か大東亜戦争史観を英文で書いた人がいるのでしょうか。あるいは日本人の書いた大東亜戦争史観を英文翻訳した人がいるのでしょうか。書いたところで自分のお金がかかるだけ、金儲けにはならない、名誉もない、感謝されることもない、そういう情況での鎌倉の渡辺さんの努力には、頭が下がります。



4.いずれ私は小説にも挑戦したいと思っています。アイデアはあります。私の体験に想像を思い切りふくらませて、「女の一生」のような小説をどのていどまで書けるのかわかりませんが、書いてみたい気持ちがあります。いずれにしても上記の特に(2)、(3)にある程度のめどがついてからの話になると思います。



 このように次の寅年までの12年間の計画を立てました。例え計画どおり実行できなくて元気に84歳を迎えれば、次の寅年の96歳に向けて新たな計画を立てる。こうしてこと仕事に関して無為に過ごしてきた定年前の40年間を取り戻すのだ。私は野球のイチロー選手の大ファンです。彼は人間ができている。彼が出演するテレビ(野球の試合ではない)をよく見てきた。彼は時々名言を吐く。彼が偉業を達成したとき、「小さな努力の積み重ねの結果」という名言を吐いた。彼のような天才にしてこの言葉通りに実行してきたのだ。私の人生はまだ終わったわけではない。それには「小さな努力の積み重」を続けることなのだ。



 最後に私は去年の暮れまでFC2のブログを利用して毎週日曜日にブログ記事を書いてきましたが、今月末1月31日(日)から私専用のブログを開きます。

ブログアドレスは、http://www.endanji.com/



 最初のブログ記事は、これと全く同じ内容です。興味がありましたら次回から私のブログもぜひ御覧ください。毎月末の日曜日に更新するつもりです。



鈴木敏明
posted by 坦々塾事務局大石朋子 at 01:00| Comment(6) | 坦々塾報告 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月26日

外国人参政権反対集会報告 平田文昭

   外国人参政権反対集会報告

       坦々塾会員  平田 文昭


 1月16日、民主党大会が東京・日比谷公会堂で開かれた。
反祖国政治に余念のない民主党の大会である。しかも当然のことながら小沢一郎幹事長も来場するとあって、多くの同憂の人たちが会場近くに結集した。その数、1500人を越えていただろうか。
 

     RIMG0069.JPG

 

 日陰となった結集場所は、風に吹かれると特に寒い。その寒さをついてベビーカーの親子連れなど、組織動員ではない多様な人々があつまった。ひとえに、小沢一郎氏が積極的に推進している外国人参政権法案阻止のためだ。

 会場である日比谷公会堂がある日比谷公園には入れないので、道路を隔てた反対側が抗議行動の場所となった。そこから外国人参政権に反対する主張や「小沢逮捕」のシュプレヒコールが浴びせられ、これは会場内まで届いたという。そのせいでもあるまいが、会場の窓から訝しげに外をみる民主党関係者の姿が多くみられた。

 民主党に少しは私たち怒りを伝えられた、だろう。その上で私には少し疑問が残った。

 「恥を知れ」といっても恥を知らないのだから、意味なし。二言目には「小沢逮捕」では外国人参政権反対の意思は伝わらない。民主党への怒りも、特権民間労組、自治労などのブルジョワ左翼へぶつけられる「愛国労働者人民の怒り」も感じられなかった。反対の声は大きいのだが、妙にちんまり纏まってしまった印象がある。

 寒い中、せっかく志ある人々が、国の行く末を憂いて集まったのだ。このまま同じようなことを続けていいのだろうか。皆さん、活動疲れしてるのではないか。街頭行動を職業にしている活動家ではないのだから、当然だ。

 いま政治の世界では激しい権力闘争が戦われている。祖国の将来を大きく過つことになる反日法案は葬らなくてはならない。そのために私たちは声を挙げてきている。しかし、これから大変なときだからこそ、我々一般国民が行う政治参加、政治活動とはどういうものか、をもう一度考え直すときが来ているのも確かなようだ。


posted by 坦々塾事務局大石朋子 at 21:04| Comment(1) | ゲストエッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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