2009年12月09日

「保守の怒り」感想 渡辺望


    「保守の怒り」感想 

         坦々塾会員 渡辺 望


 西尾先生は「人生の深淵について」で、「怒り」とは何か、ということについてこう考察している。

 「怒り」とはきわめて危険な面をもつ人間性の一面である。しかしそうでありつつ、精神の孤高を保つ、もっとも貴族主義的な精神のあらわれでもある、と先生はいう。そして偉大な思想や文化というものは、実はすべて「怒り」という孤高の精神の行為によってなされてきたものだ、とさえこの「人生の深淵について」でいわれている。

 「自分たちは怒っているんだ」というような、政治的集団や政治的集会で共有される「怒り」というものは、まったく不純な「怒り」に他ならない。「怒り」は共有もできないし、まして「怒れ」と命令もできない。「怒り」はどこまでも、それを発する個人の所有物なのである。

 しかし何より大切なことは、「怒り」という、本来、危険な行為への取り扱いを心得ている人は、「怒り」について、単に怒りそのものを叫ぶにとどまるのではなく、さまざまな分野での創造的な行為へと結びつけることを知っている人なのだ、ということだろう。「怒り」が、優れた何かになるということ。たとえば、歴史上の音楽や絵画の多くには、その作者の「怒り」というものが、見事に、粘り強く昇華されているのを感じることができるのだ。昇華された「怒り」は、必ずしも孤立無援なものではなくなる。そして、孤高な精神を踏まえた者の間においては、「怒り」を響き合わせることも可能になる、ともいえる。

 「保守の怒り」を読まれた読者は、どのページをひらいても、西尾先生と平田氏の両氏の思考の歯車が、日本の現状をめぐるさまざまな問題について、めまぐるしく展開されていることを感じて、共感をおぼえるという以前に、驚いてしまうに違いない。そこでは、昇華された「怒り」が響きあっている。

 もちろん、既存の「保守派の書」と呼ばれた中にも、「保守の怒り」ということをいう書がなかったわけではない。しかしそれらの書がすべて束になってもかなわないような発想の書が、この「保守の怒り」には充満している。そうした発想の充満がなぜ可能であるかという理由はむずかしいことではなく、それは両氏が「怒り」を共有するものだ、などとは考えていないことだから、なのである。歴史上の音楽や絵画が、「感情の共有」というようなことでは決して生まれ得ない、ということと同じことなのだ。

 たとえば、西尾先生の「恐ろしいんですよ、今の地球上では平和が軍事力になっていますからね。平和が軍事力になっていますからね。平和という名において、戦争という効果を発揮することができますからね」(p39)というくだりは、私が読んできた凡百の政治学者のどんな表現にもなかった。その豊かさは、「発想が豊かだ」ということを超えているほどのすばらしい。それは先生が政治という枠組みで「平和」や「軍事力」ということを考えはじめるのではなく、「怒り」という孤高なものからを政治的現実を感じぬくことがすべてである、ということを忘れなかったから可能な表現なのである。

 あるいは話題が、平安時代の死刑制度の廃止に及んだときの、平田氏の「死刑がない時代に武士が成長してきたことが大事だと思います。人殺しが見つかっても、政府は自分が殺生したくないから都の外に追放するだけ。殺人者を放たれた方は迷惑します。自衛しなければなりません」という発言は、決して、既存の学者や評論家では思いもつかないことであろう。

 情緒的な多数の日本人は、平安時代の死刑制度の廃止という歴史的事実を前にすれば、人権派は死刑反対の根拠に、保守派は「日本人の美点」にしてしまうように考えてきたといえる。それら既存の思考法に、「孤高の精神」などという本当の思想の出発点は少しもない。「怒りの共有」ということの裏返しにすぎない「感動の共有」が、私たちの政治や歴史への発想を、あまりにも貧困にしてきたのである。

 両氏の「怒り」の大半は、左翼とか戦後民主主義に向いているのではない。それは執拗に、といっていいほどに、「保守」と呼ばれる人たち、「保守」と思い込んでいる人たちに向いている。「怒り」をもって政治的現実にあたっている保守陣営の人たちが、本当は「怒りの共有」を繰り返しているだけだということ、そのことへの激しい想いのようなものこそ、両氏の「怒り」の本質ではないか、と私は思う。

 だから、「保守の怒り」という題名は、正確にいえば、「保守への怒り」という題名に言い換えられるものだ、といえる。さらに正確にいえば、「保守と思い込んでいる保守への怒り」といえるのかもしれない。さらにさらに正確にいえば、「怒れる保守と思い込んでいる保守への怒り」という題名に変換できるのかもしれない。

 言うまでもなく、西尾先生と平田氏の両氏は、「怒り」を共有しあうということからもっとも遠い地点にいる。だから、提示された問題が結論に結びつかず、私たち読者に、問いかけのままで残されている問題もたくさんみられる。ほんの一例であるが、「保守はなぜ靖國神社と三島を語らないのか」(p243)というきわめて興味深いテーマは、問いかけのまま、読者の思考力へと投げ出されている。これもまた、本書が正しい「怒り」の書であるが所以であろう。

 哲学者の永井均氏の言葉に、「哲学とは、問いが常に答えを凌駕している世界のこと」というくだりがある。私はそのことは別に哲学の世界に限定されたことではない、と思う。「問い」を「怒り」ということに、そして「答え」を「政治的結論」ということに置き換えれば、それは政治の世界にあてはめることができよう。

 それこそがこの「保守の怒り」が書かれた意味なのではないだろうか。「怒りが常に政治的結論を凌駕していること」、この政治的世界における真実を、この西尾先生と平田氏の対談の書より、私たちは強く感じるべきではないか、と思う。

          文責:渡辺 望



posted by 坦々塾事務局大石朋子 at 06:19| Comment(0) | 読書感想文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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