2009年08月20日

『「権力の不在」は国を滅ぼす』西沢裕彦

 『「権力の不在」は国を滅ぼす』読書感想文

      坦々塾会員  西沢 裕彦

 西尾先生の新刊 『「権力の不在」は国を滅ぼす』 を手にとりました。
 ハッとさられる刺激的なタイトルです。昨年末以降の『正論』『WiLL』『諸君!』などに掲載された最新論文集で、「昭和史」家、皇室の在り方、天皇と戦争責任、雑誌ジャーナリズムの凋落ぶりなどについて、ズバッと斬り込む筆法の鋭さに暑さも忘れてしまいました。

画像 011-1.bmp


 タイトルにある「権力の不在」という言葉から、日本の社会構造の特質をある心理学者が「中空構造」と唱え、又ある評論家が「空気」と呼んでいたことを想起しました。フランスの哲学者は、東京のど真ん中に皇居があるのを見て、日本の中心が穿たれていると書いていますから、内から見ても外から見ても、日本の中心は空っぽな、あるいは靄っとした、不定形な、在るか無いか定かでないものとの認識が卓越しているようです。

 たとえば神話の世界では、イザナキの洗った左の目からアマテラス、右目からツクヨミ、そして鼻からスサノオが生まれますが、この中でツクヨミはほとんど活躍せず無きに等しい存在です。また神社について次のような記述があります。「神社というものは中心に行けばいくほど、何もなくなっていく。一応は中心に魂匣(たまばこ)のようなものがあるのだが、そこにはたいていは何も入っていないか、適当な代替物しか入っていない。また、鏡があるが、これはまさに反射するだけで、そこに神という実体がない。そればかりか、そもそも日本の神々は常住すらしていない。どこからかやってきて、どこかへ帰っていく」と。
 
 さて西尾先生がタイトルの「不在」に籠めたのは、「皇室を守っている権力がしっかりと実在し、権威である皇室がぐらつかない限り、国家は安泰」だが、「その肝心要の権力が外国にあるということの悲劇」だという認識とそれに対するはがゆい心情の吐露です。皇室を守るべき権力はいつまでもアメリカに握られ、皇室は「雅子妃問題」でぐらつき続け、長らく政権を握っていた与党は倒壊の間際の状況下、まさに「権力の不在」が露呈し、日本は「なすすべもなく茫然自失している」のです。

 江戸時代に皇統の維持が困難を極めた時に、その問題を解決した中心人物は新井白石でした。それ以前も日本は衆知を集め、邪を退けて皇統を繋いでここまで来たのですが、平成の御世の皇統は破たん無く繋いでゆけるのでしょうか。

 第I部第3章の《今こそ「昭和史」と戦おう》 のサブタイトルには「歴史は未来から来る」「歴史は生動するもの」「事実の検証は歴史ではない」「事実の意義は政治で変わる」「歴史は客観的なものでない」「「昭和史」と戦う必要性」などが並び、「歴史」をどう捉えたらよいかの的確で具体的な指針が示されています。ここで言う「昭和史」とは半藤一利、保坂正康、五百旗頭真、秦泰彦、北岡伸一等の各氏による、「世界の中での日本」を見ず、狭隘な、単眼で短視的な、思い込みと独善に彩られ、商業主義にも毒された史観のことです。売れれば官軍なのは小説界同様ですが、多くの日本人が偏った歴史書を読んで、ゆがんだ歴史認識を持つことは、日本の未来を過たせます。消夏法に歴史書をひも解こうとしている方は、同論を読み「歴史」の本質とその捉え方を抑えてからでも遅くはないでしょう。

 第II部第一章の《雑誌ジャーナリズムよ、衰退の根源を直視せよ》は雑誌『諸君!』2008年12月号に載り、一般読者とともに論壇人にも感銘をもたらしました。同論は、言論雑誌の衰退原因を「イデオロギーの災い」と観ています。ここで言う「イデオロギー」とは、「自分好みに固定化された思考の枠組みのなかに、自ら進んではまり込むこと」を指しています。
「イデオロギーとは、自分の好むひとつの小さな現実を見て、他のすべての現実に目を閉ざそうとする怠惰な心の傾き」なのです。保守であっても、天皇の御製と教育勅語を子供たちに唱えさせれば素晴らしい人間に育つと信じているような「保守イデオロギー」はアジアの民衆を思い、憲法九条をお題目のように唱えていれば素晴らしい人間になるという「日教組」流と構造は同じだと批判しています。

 雑誌掲載時に一読し、この単行本で再読する価値のある、拳拳服膺すべき珠玉の論文ばかりです。

        文責:西沢裕彦
posted by 坦々塾事務局大石朋子 at 20:37| Comment(2) | 読書感想文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月11日

萩野先生の最後の授業  池田俊二


 坦々塾会員 池田 俊二


 産經抄は私も讀みました。「最後の授業」は、私は聽講してゐません(當時、未だ坦々塾に入れて頂いてゐなかつたので)が、萩野先生は我が國語問題での師(と勝手に決めてゐました)でしたので、産經抄を呼んで懷しかつたのは、大石さんと同じです。
以下、懷しく思ひ出したことを、アットランダムに列擧致します。

@今から7〜8年前になるでせうか、西尾先生に「先生は歴史的假名遣、正字で原稿をお書きになるべきです」と申し上げ、「それをやつてゐたら、商賣にならなん!」と御不興を買ひました。

A「江戸のダイナミズム」が『諸君!』に連載中、西尾先生から、「今度、現代かなづかい肯定論を書いたので、讀んでおけ」とのお電話を頂き、衝撃を受けた私は萩野先生に相談したところ、「そのやうだ。とにかく、實物を讀んでからのことにしよう」とおつしやいました。

B「實物」を讀んで、納得できず、かなり不滿だつた私は西尾先生に對して、手紙や電話でしつこく異義申立てをしました。西尾先生はその都度叮嚀に誠實に對應して下さいましたが、最後に「その點は、萩野さんの意見も聞いてみたら?」とおつしやいました。ここが西尾先生のフェアなところでせう。また「あなたたち(萩野先生と池田)が共同戰線を張るのなら、僕も對策を考へなくてはならない」などと、冗談も言はれました。

C萩野先生にお願ひしてお送り頂いたのは、西尾論文に對する、萩野先生の反論でした。『諸君!』に寄稿したところ、ボツになつた由。
(以上A〜Cについては、拙著『日本語を知らない俳人たち』に詳しく書きました)。

画像 009.bmp
 池田俊二さんの著書 
    『日本語を知らない俳人たち』(PHP)

D『江戸のダイナミズム』が本になつた際、(我々の異論のせゐかどうかは、お聞きしてゐませんが)かなづかひ論の部分はかなり改善されたと感じました。しかし、若干の不滿も殘りました。たとへば、明治6年における歴史的假名遣の學校教育への導入と、昭和21年の「現代かなづかい」が同日に論じれれてゐることなど(私は、兩者は決定的に違ふ、前者にあつて後者にないのは「志」だと考へます)。

Eその感想を、萩野先生に申し上げたところ(『江戸のダイナミズム』出版記念會への出缺問ひ合せをかねて)、「とにかく、偉いものだと壓倒される思ひで、簡單な禮状1本も出してゐません。假名遣の問題は、それはそれとして、別に論ずればいいと思ひます」との御返事を頂きました。

F同書に「心ある國語學者」として、また「快著」(『歪められた日本神話』)の著者として、萩野先生が登場されたのを私が喜んだことは言ふまでもありません。

画像 010.bmp
萩野先生のご著書
    『歪められた日本神話』(PHP新書)

皆樣には興味のないことかもしれませんが、個人的思ひ出を申し上げました。

       文責:池田 俊二
posted by 坦々塾事務局大石朋子 at 19:55| Comment(1) | ゲストエッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。